東日本大震災第45次、丸森町台風被害第14次、能登半島第43次派遣(20260306-0315)

派遣報告書

東日本大震災第45次、丸森町台風被害第14次、能登半島第43次派遣(20260306-0315)

◎全体をとおして
東日本大震災を機に組織となった金光教大阪災害救援隊も本年で15年を迎えた。
当時35歳、若手の部類であった私も今は50のオッサンとなり、一気に東北まで走ることがだんだんと難しくなってきた。初日は奈川県厚木市まで移動して宿泊、翌7日早朝に金光教向島教会に立ち寄った。国連からいただいた物資を積み込むためである。
国連からは、パレット単位で物資を差し上げたいと申し入れをいただき、東京都内限定での受け取りに限っては送料無料とのことで、物資はすべて向島教会に預かっていただいている。ちなみに500ミリリットル×20本入り×60箱で1パレットとなり、二種類の品物があったため各1パレットをいただいたが、相当な量となった。
そののち福島県に向かった。福島県会津地方に入ると気温が一気に下がり、磐梯山あたりは吹雪いて雪が積もり始めていた。前にも報告書に記したが福島県は3つの地域に分かれており、「浜通り」は太平洋側の地域(いわき市など)、「中通り」は県の中央部(福島市など)、「会津地方」は県の西側の山間部、それぞれに文化や気候がかなり違う。例えば、浜通りは気候が温暖でほとんど雪も降らない。会津地方は豪雪地帯で冬場は雪が積もり厳しい環境となる。ただし15年前の東日本大震災における原発事故で、浜通りは想像を絶する厳しさに見舞われることになった。
福島県では、保原教会の高橋環先生と食事を共にしながら、福島県の現状や教会のことなど教えていただいた。このたびの金光榮雄先生(福島教会長)ご帰幽に際しては、ここまでのことに感謝を申し上げ、霊前に手を合わせた。
またこの度の派遣では、いわき市にある「阿弥陀寺」を訪問した。「阿弥陀寺」の馬目(まのめ)副住職とはここ数年会議や研修会でご一緒している。
救援隊は「宗教者災害支援連絡会」とも深く関わり、宗教者の災害時における取り組みについて、会から後方支援をいただいている。代表は島薗進先生(東京大学名誉教授)で、今年から稲場圭信先生(大阪大学大学院教授)にバトンタッチしている。
私もここまで2度、講師をつとめ、5月には東京での講演依頼も引き受けているが、そこでたびたび同席しているのが、この馬目副住職で、災害支援の今後について話し合いをした。
馬目副住職は東日本大震災以降、様々なボランティア活動に精通し、行政とも関わりを持ち、地域社会における宗教者としての役割を果たしているため、その価値観やノウハウを勉強させていただいた。良い時間であった。
 岩手県宮古市田老町訪問では、それぞれのお宅においてここまでの15年間を喜ばれた。15年前に我々救援隊の女性隊員と炊き出し会場で遊んでいた当時7歳の少女が大学卒業後、結婚したという情報もいただき、15年という月日の長さを感じた。
台風被害の宮城県丸森町では、丸森町派遣(炊き出し)時の担当者の方々と懇談をした。
私が、「丸森町の復興は私が見てきたどの災害よりも早かった。職員は休みを返上、夜を徹して働かれ、住民ファーストでやってこられた結果、どこの災害よりも復興スピードが早かった」と伝えると、担当者の方は謙遜されながらも、「初めてのことで右も左もわからなかった。そんな中、たくさんのボランティアも来てくださったが、正直どこと手を繋いだらよいのかわからなく恐ろしかった。でも結果、こうやって皆さまと繋がれたことが丸森町の早期復興に繋がったと思っています。最近、国が主催する防災プロジェクトの会議に出てまいりましたが、内閣府が主催するプロジェクトにぜひ推薦したいのですがご存知でしょうか?」と訊ねられたので、「救援隊は今その準備を整えております」と言うと、「ぜひ内閣府からの支援を受けてもらって、今後ともよろしくお願いいたします」と言っていただいた。
宗教者という枠組みを取り払う、あるいは宗教という垣根を下げる、ということが、国を巻き込んで進んできているのかもしれない。このチャンスに救援隊も一歩前に踏み出したいと思う。
このたびの派遣で印象的だったことを一つ記すと、震災遺構として非常に有名な大川小学校、特に津波の被害で全校児童のうちの7割にあたる74名と教員10名が犠牲となった地区であるが、この大川小学校には、震災と津波の惨状を伝えるため、伝承館が設けられている。慰霊碑や献花台も設けられていたが、その様は毎年位置が変わったりしていた。今はようやく入れなかったところの整備も行われ、柵が新設され、碑文が刻まれている。
伝承館に入ると、犠牲になった小学生のランドセルや学用品などが展示されていたり、涙無くしては見られない光景が広がる。個人的にもこの15年の間に親となった私には年々悲しさが増すばかりである。いくつか碑に刻まれたことを記すと。

・自然がつくりだしたこの世界で 未来をそうぞうし 生きることができるのが人間です そして 判断し行動できるのも人間です ときに大事なことを見失い 気づけなくなることの おそろしさを知ってほしいのです なぜ 一番大切なものが見えなくなるのかを考えてほしいのです いのちの尊さを 誰もが理解しています 平和な日常を 誰もが願っています 話しあうこと 考えること ともに確かめあうことで きっと あるべき未来は続いていくはずです

・ここには町がありました 生活がありました いのちがありました 子どもたちが走りまわっていました

・2011年3月11日 いつもと同じ朝でした 「行ってきます」の後ろ姿を見送ったあの日 「寒かったでしょう」とあたたかい手で抱きしめてあげたい
以上は碑に刻まれた一部分を紹介したが、
今はなき大川小学校、15年経っても絶対に遺族や、たくさんのものを失った人たちの気持ちが癒えていることはない。だからこそ、私たち救援隊は生きる希望を失った人や、悲しみにくれる人に寄り添いたい。私は一人の隊員として15年間、災害ボランティアに従事してきたが、15年経ってさらにその気持ちを強くした。
さてこのたびの派遣の終盤は、2月に大雪のため延期した炊き出しを行うべく、能登にも足を向けた。宮城県から東京経由での石川入りは相当な時間がかかり、さらには日が暮れてからは途中の、長野県、新潟県、富山県で大雪に見舞われた。暖かくなる予報と、経費を削りたかったため自家用車で行ったが、スタッドレスタイヤを装着していなかったため随分と神経をすり減らした。同じように油断した方であろう多くの事故を見たが、私たちは神様からお守りをいただいて事故はなかった。
能登の被災地には橋本教務総長が視察に来られ、炊き出しを手伝ってくださり、我々を激励してくださった。西川教務総長以来二人目の視察、そして自らもご用くださり、隊員も士気が上がった。
発足から15年経った救援隊は今、日本の宗教団体を含む全てのボランティアのなかでも過分な評価をいただき、上位に位置しています。これはまさしく一緒に頑張ってくれている隊員の努力と、支えてくださる支援者の力が相まってのことと思っています。
これからも、たくさんの人のお役に立って、20年、30年と続いていける救援隊にならせていただけますよう精進してまいります。
教区の先生方をはじめ、全教信奉者の皆様、支援団体、一般企業、未信奉者の皆様には、引き続いてご支援を賜りますようどうぞよろしくお願い申し上げます。
以上簡単ですが、第45次・東日本大震災、第14次・宮城県丸森町台風被害、第43次・能登半島地震災害派遣の報告とさせていただきます。
(文責・竹内真治)