『能登半島豪雨』(大阪センター通信 2024冬号より抜粋)
第14次派遣では、大型台風の影響もあり、暑さに加えて急な豪雨とえげつない雷に襲われた。近くに落雷することもあったが、隊員は誰も臆することはなかった。しかし、その豪雨によって仮設住宅が瞬く間に水浸しになったり下水が溢れたりした。
非常に嫌な予感がしていた。
令和6年9月21日から22日にかけて、台風14号が温帯低気圧となり、秋雨前線と線状降水帯が合わさって石川県能登半島に記録的な豪雨災害をもたらした。「令和6年9月能登半島豪雨」が発災した。
河川の氾濫や土砂災害により、14名が死亡し未だ行方不明者もある大災害となった。いち早く隊員から連絡をもらい、ニュースを見て背筋がヒヤッとした。
私たちが支援している門前町浦上地区が被災しており、現地の方は避難所に行かれ、ニュース映像にも知った方ばかりが映し出されていた。連絡先を交換している方からたくさんの写真や動画を送っていただき驚いた。
教会では霊祭を次の日に控えて準備をしていたが、すぐに出動の準備を整えて24日早朝には大阪を発った。
現地の状況は酷く、道路に大木が打ち上げられ、車が横たわっていた。とんでもなく高い場所に土木とともに車や家財道具が押し上げられているなど、水害の爪痕が深く刻まれていた。
支援先の浦上公民館職員の方も対応に追われていた。わたしたちの訪問を驚きながらも大変喜んでくださった。
この度の豪雨災害では能登半島地震とは違ってボランティアも足止めされなかったので出動が早く、たくさんのボランティアが現地入りしていた。
拠点の浦上公民館、その敷地の仮設住宅も床上浸水・床下浸水となり全員避難所に行っていたが、水が引くと避難していた方々も仮設住宅に帰って泥かきや家の清掃に追われていた。
仮設住宅にお住まいの被災者の方々は私たちの姿を見ると声をかけてくださったが、口を揃えておっしゃったのは「一年の間に2度も大災害に襲われるとは思ってもいなかった。神も仏もない」と申された。
私が気になっていたことのひとつに、お預かりいただいている私たちの備品のことがあった。「備品類が流出してご迷惑をかけてはいないだろうか」と思ったが、しっかりとブルーシートで縛っていたため、飛散して流されることがなくてよかった。
ただ、地面から40センチくらいまでの浸水があり、五徳など重い物は地べたに置いてあったので残念ながら諦めざるを得なかった。これは油断でありました。申し訳ありません。
そしてなによりもまずは、住民のみなさんの話を聞かせてもらいながら、助かった備品などを洗い流したり、道具の手入れ、付近の泥かきを行った。
公民館の館長さんをはじめ、スタッフの方や被災者の方々がものすごく協力してくださり、気持ちよく作業をすることができて本当にありがたかった。
なによりも、みなさんが口々におっしゃってくれたのが、
『あなたたちが来てくれている時じゃなくてよかった!』と、自身が被災しながらも私たちのことを想ってくださり申し訳なく思った。
きりのない作業にはなるが、次の日にも泥出し作業を行い、特に私たちが使わせていただいてる場所の周りや排水溝のあたり、詰まってしまえば同じ被害が出るし、次回の炊き出しも諦めざるを得ないので、それなりに頑張ったが、出しても出してもキリがなかった。
その時、東北大学の院生が視察に来た(前に報告したが、この方は東日本大震災時、石巻で被災した。その時に救援隊の炊き出しを何度ももらったと言って感謝してくれている)、 「何をやったらいいでしょうか」と尋ねられたので、とにかく学生を連れてきてここの側溝の泥かきをお願いしたい旨を伝えると快く引き受けてくれた。(次回訪問の際には側溝・排水溝が綺麗になっていた)
途中、関係性の出来ている被災者の方が来てくれて「私の家見た?」と言われたので、「いえ、そんな見学になんて行けません」と言うと、「一緒に行ってあげます。写真も撮っていいから、遠慮なく来てください。皆さんには見ておいてもらわないと!」と言って、被害が一番酷かったところを案内してくださった。
我々の拠点から歩いてわずか3分のところだが、状況は本当に酷く、川が氾濫した場所から土石流や流木で家々や車がぐちゃぐちゃに押しつぶされている惨状を見た。
1月の能登半島地震から約9カ月、やっと仮設住宅に入ったり家をリフォームしていた矢先のことで被災者のみなさんは当然のことだが絶望されていた。
口々に「もう立ち直れる気がしない」と申され、私にはかける言葉もなかったが、「せめて私たちは頑張って一回でも多く通います!」と言うしかなかった。
その後も、作業をしていると被災者の方たちが通るたびに「竹内くん来てくれたの?ありがとう」と声をかけてくださり、笑顔で話されたが、それでもやっぱりみなさん、ものすごく沈んでおられた。
他のボランティアの人と言葉を交わすと、「金光さん10月もまた来るんですか?」と言われたので、「来る約束をしているけどなぜ知っているのか?」と聞くと、「だって被災者の方たちの玄関に金光さんの炊き出しのチラシを貼っている家がいっぱいあったから、ものすごく楽しみにされていましたよ」と言われた。みなさんが本当に楽しみに待ってくださっていることを改めて知った。
せめて私たちが使わせていただいてる場所付近だけでもと、三日間にわたり石黒隊員と2人で掃除などさせていただき(全体的に泥が3センチから5センチ程度堆積しており、ショベルで取ったあと、流しながらワイパーで水を切り)、救援隊の大切な備品もできる限り使えるように洗ってきた。
また、その作業に加えて毎日発泡スチロール3杯分のドリンク、オニギリ、どら焼きなどの甘いもの、塩辛いおかきなどを、買える場所もなく作業に追われて昼食も食べられない方々へ提供もした。
慣れている私たちの動きにみなさん感激されたが、これこそ救援隊13年間の経験の蓄積だと思う。
仮設住宅で床上浸水の方に水を運んであげたりしながら仮設住宅を見させてもらったが、まともに浸水被害に遭った場所はもう住めるような状況ではなく、行政の一日も早い介入を願うばかりであった。
どうしても同じ地域で発災したので同じ括りにされがちだが、「能登豪雨災害」は元日に発災した「能登半島地震」とは全く別の災害であり、せっかく「能登半島地震」のショックから少しづつ立ち直ろうと頑張ってきた方々にとって更なる追い打ちをかけたものでもあり、だからこそ、私たちは同じように考えることなく、また新たな支援を引き続いてしたいと思っている。復旧復興にはかなりの時間がかかる。
10月に入り、ボランティアの散水車が来て公民館まわりや駐車場などの泥を流してくれたため、粉じんが飛散することなく我々の炊き出しもやり易くて助かった。
新たに行政からの作業者が長期スパンで来るため、我々がテントを張っていた位置に業者の洗濯コーナーを設けられていたりと、また一からテント場所を考えるスタートとなったが、地区の方々との信頼関係ができているので好きなようにさせていただいている。
炊き出しのほうも、水害で被災した方々が避難所に行かれていたりして、区長さんも「今日は少ないかもしれません」と心配されていたが、避難先からも車でわざわざ来てくださり、いつもの顔ぶれで炊き出しをすることができてよかった。
その日も時間前には長蛇の列ができ、一人ひとりに声をかけると床上・床下浸水の被害に遭った方々が「水害が1週間早くこなくてよかった。1週間前だったらあなたたちが居て心配だったから」とか「先日の水害後もすぐに来てくれたよね。本当に嬉しかった!」と言ってくださったり、「チラシを玄関に貼っていたけど、水害で流されて日にちがわからなくなったし、水害でもう今日の炊き出しも中止かなと思ったけど、来てくれて嬉しかった!なによりもあなたたちに会うと安心する」などと口々にお礼の言葉や労いの言葉をくださった。
仮設住宅では、床上・床下浸水の被害に遭った方々は床をめくり、ある程度の泥を掻き出した後、送風機を24時間つけっぱなしで床下を乾かしているが、その送風機は業務用のもので、もし誤って子供が触ったりすると指が無くなってしまうため、子連れの家庭は別の場所に避難されていたり、そもそも、匂いもきついし粉塵が舞っている家の中で生活するなど考えられない。そこは行政になんとかして欲しいところである。劣悪な環境での生活を強いられている方々を見るといたたまれない気持ちになる。
そんななか、11月に入り新たに豪雨災害の支援も進めている。
苦手な作業ではあるが、豪雨災害によって水道付近の囲いなどが破壊され、応急的な措置は行っているが、しっかりとした造りではなく、そういったものの改修や、サロン活動を開始した。
サロンでは、被災者の方が自分の畑で獲れた柚子のマーマレードを隊員にくださり、そこに手紙が添えてあった
『こういった喫茶は数か月ぶりで、集まった皆さんは互いに水害のことや復旧工事あるいは解体工事のことも話したり、聞いたりできて良い時間が過ごさせていただけました。ありがとうございました。』
また、道下(とうげ)仮設住宅(地域で一番大きな仮設住宅)にお住まいの方は、私たちの訪問を喜ばれつつも、私たちのことを心配してくださり「嬉しいけど、本当に絶対にムリだけはしないでほしい。体壊されたらイヤだから!」と言われるが、「私たち、どうしても何かしたくて、少しでもお役に立ちたくて来ていますからね。また続けてきますから」と言うと、『ありがとう。ありがとう』と何度も何度もお礼を申されるこの方は、家が地震で大規模半壊し、なんとかリフォームしてまた住もうと思っていた矢先、豪雨の水害に遭い、心もポッキリと折れている。
話す中で思うことは、この方お一人の心を救うだけでも、この活動には意味があると思う。
被害に遭った方々も、どこかボーっとしていて、開いた口が塞がらない感じがしたが、なんとかサロンなどの回数を増やしたりしながら一緒に頑張って寄り添いたい。
仮設住宅においては、水害で2度目の被害に遭われた仮設住宅の方々が11月から順番に小学校に避難され、その間に仮設住居内の消毒・床の張り替えなどが行われて、早くて2週間、長くて1ヶ月程度の避難生活を余儀なくされる。行政の対応も遅く、やっと水害の被害に着手してくれるようだが、水害後は正直、人が住めるような環境ではなかった。
被災者の方からは「夜に小学校の明かりがついているとやっぱり地震のときを思い出して切なくなります」との声がよく聞かれ、避難所となる小学校の前を通ると、1月の地震直後と同じ光景が見られて時間が逆戻りしたように思える。
それでも被災者の方たちは前向きに進んでおられ、この炊き出しに並んでくださる時だけでも笑顔になってくださることをありがたく思う。
狭い町なので、どこへ行っても住民の方と会い、その度に挨拶をしたり、手を振り合ったりして親戚か家族のようになってきて能登も第二の故郷のように感じられる。スーパーに行くと必ず誰かと会って挨拶を交わす。
震災では家が無事だったが水害で家を失った方が、「あなたがスーパーで石川県産のコシヒカリを買っておられる姿を妻と見ていました。そして昨日の天むすなど、これまでも全て美味しいのですが、普段食の細い孫がよく食べてくれます。たくさん食べる孫の姿を見たら嬉しかった」と喜ばれ、そののち毎回の炊き出しでは「この方たちの炊き出しはどれもこれも美味しいし、石川県産のコシヒカリを使ってくださっているんだ!」と大声で近くに並ぶ方々に話しておられる。
被災者だからといって古米や外国産米を使っているのではなく、出来るだけ美味しいものを食べていただきたいという救援隊の魂に感激してくださったようで心が伝わってよかった。
現地では11月18日のサロンの際に雪が降り、寒くて長い冬がやってきた。持参した氷が3日間では溶けない寒さとなってきたので、冬対策を考えてまいりたい。
「冬はどうするの?今年は雪が多いし、雪が降ると危ないよ」などと心配の声もみなさんからいただくが、それも覚悟の上での事なので皆んなで力を合わせて頑張りたいと思う。
最後に、今回の能登災害派遣では、これまでとは格段に変わってきたことがある。
それは、被災者のみなさんが、なぜか「金光教さん金光さん」と言ってくださり、宗教を敬遠しない風潮がある。「ホームページ見てるよ」などと言ってくださる方もあり、地域性も関係するのかも知れないが、なんとも表現のし難いやり易さと嬉しさがこみ上げる。