熊本第29次派遣、熊本水害先遣隊(20200706-08)
○全体をとおして
「熊本地震」において私たちが支援を続けてきた仮設住宅「益城町安永仮設団地」も3月をもって閉鎖となり、我々救援隊は、新しく家を建てて引っ越される方や復興住宅(集合住宅)に引っ越される方を見送った。
このたびの熊本派遣は、「益城町安永仮設団地」の会長兼管理人を長く務められたK氏が、引き続いて復興住宅での管理人をなさると伺っていたため、 そのご苦労を鑑み、救援隊として何か協力できることがないかと会議を重ねてきた。
結果、ここまで被災した方々に寄り添ってきたが、復興住宅に移った後も新しいコミュニティを形成しなければならない。それは様々な被災地を見てきて、大変なことであるとわかっている。大変であるが故に、ここまで関わりのあったK氏を補佐し、少しでもお役に立てることがないかと考えた。
その矢先、新型コロナウイルスの蔓延により、政府からも緊急事態宣言の発令、県外への移動自粛となり、4、5、6月と活動を自粛した。そして、5月21日の緊急事態宣言自粛解禁、6月19日の県境を越えての移動自粛解禁をもって、様々なボランティア団体も動き出した。
我々もそれに準じて、真備町を訪問し、引き続いて熊本地震における救援活動を再開した。
出発前日から熊本地方において集中的な豪雨があり、災害が起こっているということであったが、予定通り現地に向けて出発をした。その道中、隊長から、「情報を仕入れ、準備が整うのであれば、隊員間で相談をして被災地域への支援を行うべきではないか」との連絡が入り、隊員間で協議の結果、熊本県人吉市への災害派遣を決めた。
九州地方では物資が不足しているという情報もあり、途中、愛媛県で物資を調達することとした。翌日、熊本に近づくにつれ雨が酷くなり、携帯電話を通して避難情報や警報が流れた。どの道も通行止めで、最後は山越えを試みたが山の道もことごとく崩落し、人吉市へ辿りつくことが出来なかった。
一旦熊本教会に戻り作戦会議を行った。ご信者で地元の地理に詳しい方や、土地勘のある方が会議に加わってくださり、インターネット環境を駆使した結果、最終的に三つのルートに絞り翌日に備えた。
翌7日は、元安永仮設住民の方々や懐かしい顔ぶれにお会いした。感染症対策のため、隊員はマスクや消毒を欠かさず、ソーシャルディスタンスを保ち、買ってきたお弁当で昼食会を行った。
そして午後から再度、人吉市行きにチャレンジした。九州地方全域の高速道路が通行止めとなる中、なぜか昨晩まで通行止めであった「益城熊本IC―人吉IC」の高速道路のみが開通した。不思議なことであったが昨日のことがうそのように人吉市に入ることができた。
被災した地区の状況は酷く、特に球磨川沿いにあった人吉教会は大きく被災した。被災の中心地であった。支援物資を渡すと大変感謝され、大雨が降り続き、川が再度氾濫する可能性があったので、できるだけ早く避難してほしいと伝えてその場を離れた。
この度はもう一点ミッションがあり、6日の熊本に向かう道中、宮城県丸森町役場の担当者の方から連絡があった。内容は、「今どちらにおられますか。もしかしたら、熊本に向かわれている途中なのではないかと思って連絡をしました。大変申し訳ないのですが、熊本地方が大変だという状況を知り、同じ水害に遭ったことで痛みがよくわかります。何か私たちにもできることがないかと考えた結果、必要な物資を送りたいと思っています。つきましては、見られたところで結構ですから、何が必要であるか、もし現地に入られたら、お知らせ頂ければと思って電話をしました」ということで、今となっては、行政の方からも信頼をおかれる救援隊となってきている。人吉教会への活動を終えた後、人吉市役所の担当者の方とお話をし、宮城県丸森町と人吉市役所を繋ぐことができている。
以下は、塚本隊員による詳しい7月度の派遣報告となる。
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7月3日以降、熊本県を中心に日本各地で発生した「令和2年7月豪雨」。大雨の影響で球磨川が氾濫し、人吉市や球磨村で甚大な被害があり、8名以上の方々がお国替えされました。
普段は風光明媚な温泉街で、人吉城跡や球磨川下り、球磨(米)焼酎など、観光地としても人気の場所です。
大雨当日、球磨川の水位が上昇し、警戒レベル4(避難勧告)が発令されました。教会長先生家族は間一髪、少し高台に住む町内会長さん宅へ避難し、一命を取り留めました。
しかし、教会・教職舎1階部分は床上浸水で家財道具のほとんどが水没し、水が引いた後は、タンスや机、椅子などが散乱し、目も当てられない悲惨な状況となりました。
同じく、車で5分ほどのところに位置する人吉西教会も被災し、1階部分が壊滅状態とのことでした。
元々、7月6~8日まで熊本県益城町の安永災害公営住宅を訪問する予定にしていたので、急遽、緊急支援物資を整え、大阪災害救援隊のメンバーと共に、人吉入りをすることになりました。
7日、安永災害公営住宅での七夕まつりが、急遽、コロナ禍と球磨人吉の災害で中止となり、役員の方々と昼食会を実施し、仮設団地から公営住宅へ移ってのご苦労や近況などを聞かせて頂きました。
そして、前日入ることが出来なかった人吉へ向かうため道路状況を調べてみると、ほとんどの道が土砂崩れで通行止めとなったのですが、直前になって高速道路の通行止めが解除され、一番安全なルートで人吉入りすることができました。
市内中心部は、道路脇や広場に瓦礫の山が出来、押し流された車が何台も横転していたりと、非日常の光景が拡がっていました。人吉教会へ参拝すると、すでに畳と床板が全て取り外され、御神前が辛うじて残っていました。少し高い位置にある御神前には水位がギリギリのところで落ち着き、御祈念帳と神具は無事だったそうです。
安武教会長へ支援物資をお渡しした後、現状を聞きました。被災後、被災ゴミの搬出等で疲労困憊し、菓子パンやインスタント食品ばかりで栄養が取れていないとのことでした。水道は出ますが、電気やガスはまだ通っていません。一旦引き返して会議ののち、改めて「炊き出し」を行う段取りをしました。
そして、13日に再度、人吉教会へ入り、設営準備に取り掛かりました。
教会玄関前で、機材や食品を下ろし、通行の邪魔にならないよう端の方へ車を止めていたのですが、斜め向かいに住む方がすごい剣幕で「そんなところに車を止めてたら邪魔やろが!行き来できんようになるから早うどかせ!」と怒鳴られました。すぐに車を別の場所に移しました。
次の日の朝、買い出しした荷物を玄関前で下していると、今度は向かいの方から「ここに車を置くな!邪魔で出れんやろが!早うどかせ!何考えとるんか!」と怒鳴られました。平謝りし、すぐに車を別の場所に移したのですが、「正直、そこまで言わなくても…」と困惑してしまいました。
少しでも教会や近隣の方々のお役に立ちたいと思っていた矢先に、二日間連続で近隣の方々へご迷惑をおかけしてしまったのです。教会長に深くお詫びした後、炊き出しの準備に取りかりました。
被災後、町内の婦人会が連日、炊き出しを行っていたのですが、13日からそれぞれ仕事が始まるので継続できない状況でした。元々、炊き出しを行う基盤が出来ていたので、その後をスムーズに引き継ぐことができました。
コロナ禍で県外からのボランティアが規制される中、私は親戚として、救援隊も関係者として町内での活動を進めることができました。
昼・夕食それぞれ約70食を作らせて頂き、教会家族、御用奉仕者、町内会、人吉西教会へお渡しし、メニューも、唐揚げ弁当、焼肉井など、元気が出るようにと趣向を凝らし、作らせて頂きました。
光江先生(教会長夫人)と一緒に町内へ炊き出しをお配りした際、近所の方々と話をしていると、「毎日、慣れない家の片付けをしていたら、足腰が立たんようになった」「最近、ボランティアを装った詐欺が横行している」「空き巣や強盗被害が出ているので怖くて夜寝れない」など、辛い胸の内や、被災当日の緊迫した様子を聞かせて頂きました。
また路駐を注意された方のお宅にもお届けし、再度お詫びたところ、「まぁ、駐車場の前やったし、みんなも使う道やからね。ちょっと言い過ぎてしもうた。お互い様やけんね。ありがとう」とお礼を言われました。そこから深い関係性ができています。
無事に4日間の炊き出しを終えようとした時、町内会長さんが『町内通信』を持って来られました。被災後、会長さんが町内の近況や罹災届などの手続きの仕方、ボランティアの動静など、毎日、A4版の町内通信を発行、配布されているのですが、そこに救援隊のことが次のように書かれていました。
『しんばば便り 2020人吉水害版(令和2年7月16日)』
「私たちは未曾有の災害に見舞われ、途方に暮れ、ただ茫然と立ちすくんでいた時、24時間も経たないうちに、突然この小さな町内に見知らぬ災害ボランティアの方々が現れ、その場で、被災直後から必要になる生活物資と食糧をご提供いただきました。それは今もなお続いています。そして水没してどうしようないも家々の家具、家電、畳等々の排出に、泥まみれになって注力頂き、2週間経った今、少しずつではありますが、回復の兆しが見え始めてきているように感じます。
被災から2週間が経ち、心身ともに疲れが見え始めました。時に、献身的に動いて下さるボランティアの皆様のご厚意に甘え、品定めをしたり、ボランティアの皆様に心無い言葉や、家庭の一般ごみのゴミ出しなどの雑務をお願いされるケースも見え始めています。私たちが心に受けた傷は、甚大なものではありますが、ボランティアの方々は、毎朝5時に起床され、熊本から通って救援にきてくださっていることを、心に留めて置いて頂けると幸いです。
またお弁当を作る人、届ける人に思いを馳せる時、一個一個のお弁当を心を込めて作って頂いていること、必要な時間までに届けて頂いていること、それにより家の復旧作業に注力できていることも、心に留めて置いて頂けると大変嬉しく思います。
私(会長)は、お弁当や物資をお届けすると、毎回、感謝される立場にいますが、それを作って頂く方々や準備して頂く方々にフィードバックできていないことに気付かされます。今は、ご支援を賜るばかりで、お返しできるものは何もありません。ですが、町民全体で心から感謝することを継続していくことが、大切なのではないかと思っております。
今朝、目が覚めた時に一番に思い起こして、明日の希望のために一日一日を過ごしていきたいものです」
この町内を通信を読んで、感動すると共に、あの時、路駐で怒鳴られたのは、こちらに非があるとは言え、被災して日常が一変し終わりの見えない作業に追われ、「どれほどまでに苦しく辛く、しんどかったのか」と痛烈に感じました。被災された方々の心情を分かったようなフリをしていただけで、なぜもっと相手に寄り添うことをしなかったのかと自責の念から涙が溢れ出ました。
また、町内通信と共に次のようなお手紙を頂きました。
「みなさまにご提供いただいたプロ並みに美味しく、心のこもったお料理に地域の人々は皆、心の底から癒されたと思います。感謝の気持ちをどうにかお伝えしたいという、地域の方々からの声に応えて、時間の許す限りでメッセージを集めさせていただきました。他にもたくさんの方が本当に感謝しております。
炊き出しを提供して頂いたおかげで、心にゆとりが生まれました。長期戦になるのは覚悟の上で、この先も復興に向けて邁進してまいります。
この度は、私どもの小さな町内でご支援頂き、本当に有難うございました。またいつか熊本にお越しになる機会がございましたら、ぜひ遊びにいらしてください。人吉市下新町 町内会長」
「今回は、未曾有の災害に遭い、心の底から落胆し、未だにどうして良いか分からない私たち町民ですが、皆様のご用意してくださった温かく美味しい食事を頂くこと、メッセージからどれだけ救われたか分かりません。いつ終わるともしれない作業に心身共に疲れ切っている毎日ですが、スタミナ弁当で元気と、次の日への活力、勇気を頂けました。長い戦いになりそうですが、負けないよう頑張ります!」
「温かい食事がこんなに美味しいものだとは、今回つくづく感じました。おかげで心が和み、元気が出て、片付けも進みました。大変な中、駆けつけてくださり、本当に有難うございました」
連日の作業でお疲れの中、このような感謝のお手紙を書いてくださり、隊員一同、胸が熱くなりました。
被災後、人吉市では連日雨が続き、球磨川の水位も上昇し危険な状況の中、皆さんずぶ濡れになりながら被災ゴミの搬出や泥出しをされていました。早めに撤去作業をしないと、この時期すぐにカビが生えてしまうからです。また、久しぶりの晴れ間が見えたと思ったら、照りつける日差しに道路や家屋内の泥が乾燥し、車が走ったり風が吹いたりするたびに砂埃が舞い上がり、衛生的にも劣悪な環境です。被災地では、過酷な状況下で懸命に作業が続けられています。
これらは決して遠い場所の出来事でもなく、他人事もありません。日常生活を送る中で、目の前の難儀に押しつぶされそうになり、自暴自棄になることもあります。そんな時こそ、和らぎ喜ぶ和賀心とって、小さな幸せ探しをしたいと思います。
金光教祖さまは、
「神に参るだけが信心ではない。至急の時には、お礼を当てにすることではなく、格別の親切を尽くすがよい。急難にかかっている人がいたら早く行って助けてあげ、火事があれば早く行って火を消す手伝いを潔くすれば、これが真の信心親切となる。何事にも心がけておれ。(天地は語る386節)」
と御理解くださいました。
それぞれ出来ることは限られますが、信心させて頂くお互いとして、今一番苦しんでいる方々に少しでも寄り添い、思いを届けることができればと願っています。
今後とも被災地復興に向けてのお祈り添えの程、よろしくお願い致します。
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以上、塚本隊員が教会誌に掲載された内容であり、この7月度の活動に相違ないと思いますので、抜粋、掲載させていただきました。
教区の先生をはじめ信奉者の皆さまには、いつも暖かい励ましのお言葉やご支援をたまわり、まことにありがとうございます。
救援隊として、まだまだご用を続けさせていただきたいと願っておりますので、今後ともご支援のほど、どうぞよろしくお願い申し上げます。
(文責・竹内真治)