東北派遣第32次派遣(2017/11/13~18)

派遣報告書

東北派遣第32次派遣(2017/11/13~18)

◎全体をとおして

 平成29年11月13日から19日まで、東日本大震災の被災地となった東北(岩手県・宮城県・福島県)に第32回目の訪問をさせていただいた。
 スノータイヤも必要ないうちにと思い、11月の中旬を選んだが、やはり東北は寒くて、気温はマイナスの日もあり、昼間でも10度を超える日はなかった。これから厳しく寒い冬がやってくる。
 さて、救援隊として特に活動のウェイトを置いていた、小渕浜をはじめとする漁村では、ワカメの種付け作業も終わり、養殖のカキを殻から抜く作業を行っていた。
 訪問した日は風が強く、船が出ないので休業で、それぞれのお宅でお話を伺うことができた。どこのお宅を伺っても、堰を切ったように話され、朝から訪問したが、気づけば既に夜になっており驚いた。
 話題の中心となったのは、地域の復興住宅が出来上がりつつあり、仮設住宅からようやく復興住宅に移ることが出来るという明るい話題が多かった。それでもまた、集合住宅にも抽選があって、「私はここがいい!」と選べるわけではない。6年半前に、仮設住宅の抽選があり、当たった人と外れた人が一喜一憂する姿を思い出した。
 財力のある人は家を建てる、そうでない方や、ローンが組めない方は集合住宅に入る。そしてまた、人間関係、コミュニティーの構築が一から始まる。

 この地区では、来年三月、つまり平成30年3月を目処に、復興住宅(高台)に移転出来ることになっている。
住民たちは少し楽しみでもあり、不安でもある。また行って相談に乗ったり、何もできなくてもせめて話を聞かせていただきたいと思う。
女川町の支援先の孤立集落では、裏山の高台に新しい復興住宅70戸と集合住宅が出来つつあった。今まで一番高いところに建っていた住宅が今度は見下ろされるようになるということで、住民の方々は複雑な思いであった。

 この女川町は、日本を代表するサンマの水揚げを誇る港町であるが、今年の水揚げが例年の三分の一にも満たなかった。そのため、毎年行っている「サンマ祭り」を中止にするかどうかという議論がなされたが、やはり復興の印としたいことから、北海道から取り寄せたサンマを使って行うことになったが、内情を知る住民の思いは複雑であった。

 また、この地区でもここ一年の間に仮設住宅で数名の方がお亡くなりになったり、他の地区でも前回の訪問では元気になさっておられた方が亡くなっていたりした。6年半経ってのことではあるが、震災関連死でないとは言い難いと思う。

 前回、前々回の報告書にも記した、南三陸町でタコの漁師を営む男性W氏は肺がんを患い、一度は快方に向かったが、転移が見つかり、手術もできず余命宣告を受けていた。そして今回の訪問で余命ここまでと言われた日から一年が経った。
 病状があまりよくなかったので、今回、もしかしたらと思いながら訪ねると、家で横になっておられた。少し安心したが、その日、入院先の病院から帰ってきたということだった。手の施しようがなく、前回よりも痩せていた。しばらく話したが、来年三月にまた会う約束をして別れた。

 隊員たちが何度もイクラをもらった鮭漁師の親方も亡くなっていた。前回までは元気にしておられたのに急なことだった。こういうことが多くてどうしようもない気持ちになる。
 大阪に帰って、隊長に報告するなかで、「残念なことではあるが、お亡くなりになられた方の名前、干支、年齢などを教えてもらいたい」ということであった。
 我々のここからの役割があるということである。そう、ここまで必死に救援活動のことばかりを考えてやってきた。もちろんご祈念もさせていただいてきたが、いよいよここから御霊の道立てをしっかりと祈念したいと思う。

 町のほとんどが津波で流された雄勝町にお住まいであった、モグモグのおばちゃんこと、Hさんは、震災後、いち早く住み慣れた町を離れ、仙台に移り住んだ方であるが、このたびの訪問でも、元気になさっておられ、私たちの訪問を待ちわびてくださってあった。前回の訪問ではお留守で会えなかったが、もしかしてまた最終日に寄るのではないかと考えて、赤飯を三升も炊いて待っていてくれたそうであった。

 そして、このたびの災害派遣では、初の試みとなるが、福島第一原子力発電所を視察した。
これは、福島教会に訪問の際、「あなたたちならば、ぜひ一度見に行ってみなさい」と金光先生から勧めていただいたからこそ、決心して訪問した。
 福島第一原子力発電所(以下、福島原発)から10キロ圏内にある「請戸海岸」という港から福島原発が見える。
向かう道中から異様な雰囲気が感覚や視野に訴えかけてくる。東日本大震災発生当初、人が居なくなって生活音がしない街を体験し、非常に恐ろしいと感じた。それとまったく同じ光景が広がっていた。

 請戸海岸に行くには、浪江町を通る。福島原発の事故以来、避難を余儀なくされ、その後、数年の時が経って規制解除になり、住民は町に戻ってもよいということになったが、その町には人の姿がみられない。 
見渡す限り、店も閉店したままで、家々には人が住んでいるのかどうかもわからない。ある家では盗難防止のため、シャッターなどの防壁を増設していたり、窓に木を打ち付けていたりする。あるいは、窓ガラスを割られたままで放置してあるお宅もあった。

 大阪で「福島県の○○地区で規制が解除になった」とニュースや新聞で見るたびに、町に、ふるさとに人が戻れるようになったと思っていた。しかし、ここへきて、やっと本当のことがわかった。風評被害に繋がる恐れがあるので、これ以上は言えない現実がそこにはあった。
保証がどうとかこうとか言う話ではない。実際の異常なことの一つとして、毎日の朝のニュース、天気予報でその土地、所どころの放射線の数値が発表される。降水確率何パーセント、放射線量何マイクロシーベルトといった具合にである。

 発表されている内容なので申し上げるが、私たちが行ったとき、そのあたりの放射線量は3、4µ㏜/h(マイクロシーベルト・パー・アワー)つまり、一時間に3、4マイクロシーベルトの放射線を浴びていることになる。
たとえば大阪では、0、06~0、07µ㏜/h程度であるため、実に大阪の約50倍の放射線量を常に浴びている計算になる。一週間で大阪の一年分の放射線を浴びている計算になる。
 風向きやその時々によって数値も違うため、一概には言えないが、一例として実際に私たちはそういう体験をしてきている。震災以前二万人居た住民が避難をして規制が解除になっても二百人しか帰ってきていないということも頷ける。

 そういうなかで、その請戸海岸から見える福島原発に向かってご祈念をした。
これ以上、被害が拡大しないよう、そして、一時でも早く元の町が戻ってくるよう、願わずにはいられなかった。

 復興の度合いを考えると、岩手県が一歩リードしていて、続いて宮城県のように思える。福島県の復興は、金光先生(福島教会長)や橋長先生(岩代郡山教会長)がおっしゃるように、今後40年、50年の問題になってくると思う。我々救援隊は、支援をいただける限り、その被災地へ心血を注ぎたいと考えている。

 以上、東日本大震災における、第32次災害派遣報告とさせていただきます。
教区の先生方をはじめ、全教の信奉者の皆さまには、いつも心温まるご支援の数々を頂戴し、事故や怪我もなく、ここまで活動を進めさせていただくことができました。
ありがとうございます。このうえとも、お世話になりますが、どうぞよろしくお願い申し上げます。