第26次災害派遣 活動報告
2014年10月22日(水)~10月31日(金)
本年6月23日、金光教大阪災害救援隊会議の場において、東日本大震災で被災した東北地方の救援活動をまずは5年まで続けることとなった。
これまでに、その案件についてはいつも結論が出ず、そのために隊員もあたふたし、被災者にも「今回で最後です。今回で最後です」と言うことが何度もあった。しかし、他教団やNPO法人などが長く支援を続けるなか、我々が早々に撤退するべきなのかという意見と、被災者と私たち救援隊員が築いてきた関係性、また、支援がまだまだ必要であることを考慮しての結論であった。
さて今回の訪問では、残念ながら良い知らせよりも悪い知らせのほうが目に見えて多かった気がする。
一つには、復興が進んでいない。或いは、遅れているということ。
つまり、震災から3年半が経過した今もなお、ごく一部の地域を除いて、復興住宅の建設が遅れている現状がある。岩手県と宮城県でもその差は歴然で、目に見えて分かる。その原因は、一つには行政の考え方が違うということがある。宮城県の一番北端は気仙沼市になり、以北は陸前高田市、つまり岩手県になる。この境目で線を引いたように復興道路や復興住宅建設のスピードが明らかに違うことが見てとれ、宮城県民は頭を抱えている。全体的に見て岩手県は土地の嵩上げ、道路の移設、高台移転のことについても着々と進んでいるにもかかわらず、宮城県では未だ着工していないところもある。
宮城県が遅れている一つの要因として、地元の方や現地で友達になった方が教えてくださったことでもあるが、作業員の減少の問題がある。2020年に東京オリンピックが開催される。宮城県は建設業の賃金が全国的に見ても比較的低い水準であり、この東京オリンピック開催にあてた仕事の増加に伴い、作業員が東京方面に流れていること。あるゼネコンはスカウト団を雇い、宮城県に集まった作業員をどんどんと東京に引き抜いているという。
建設業の方たちが飲み食いをしたり、宿泊施設を使っていたため、震災以降、仙台市内はバブル経済を引き起こしていたのであるが、その作業員が極端に減ったこともあって、仙台のバブルは弾けたと言われている。
もう一つの要因として、これは一例であるが、住宅の移転先が決まり、着工したが、遺跡が出たために調査を行う。そして建設工事が長期に中断しているといった場所もある。私は、半島の先にある山奥で、今さら日本の歴史を根底から覆すような事跡が出るとも思えない。一刻も早く復興住宅を建て、仮設住宅から出て安心していただきたいと思うのであるが、なかなかそうも上手くいかない現状がある。
そんななか、宮城県女川町だけは別格で、復興住宅が立ち並び、入居も始まっている。復興住宅の様子を見に行くと、モデルルームを展示してあった。中に入ると、ごく一般的な間取りの3DKであったが、二重サッシになっていたりと、私たちの街のものとは少し違った。入居に際しては、収入によって家賃が違ったり、入居の人数によって間取りが違うようである。
余談になるが、女川町は「凍らない道」と、隣の石巻市にお住まいの方に伺ったことがある。女川町には原子力発電所があり、実は出来たのも福島第一原子力発電所と同時期であった。福島第一原発が9メートルの防潮壁を築くと会議で発表があったとき、女川原発も同じ9メートルの防潮壁を築く予定であったが、女川原発は土壇場で5メートル増やした14メートルの防潮壁を築いたそうで、それが今回の震災・津波でも明暗を分けたという。そして、原発が町にあることの特権の一つとして、冬になって雪が降ったり地面が凍ったりすると、すぐに原発の方から要請を受けた業者が凍結防止剤を道路に散布してくれる。女川町のみならず、近隣まで散布してくれるから、その恩恵にあずかっているとも聞いた。これが、どんなに冷え込んでも「凍らない道」のからくりである。
そのように力のある町であったからこそ、震災・津波の直後にはいち早く仮設住宅が築かれ、(しかも、ここ女川町には三階建ての仮設住宅がある。私が見た中でも三階建てはここだけであった)復興も早く進み、土地の嵩上げ、道路の建設(移設)、復興住宅の建設、駅舎の建設も早く進んでいる。女川町だけは特別であった。
もう一つには、今回の訪問において、亡くなった方が非常に多くあり、体調を崩されている方も多かったことが気にかかった。
今年の三月に訪問して以来、約半年の間に、私たちが訪問する仮設住宅だけでも、10名の方が亡くなったと聞いた。そうとう若い方も含めてである。復興住宅の話が持ち上がっては立ち消え、また持ち上がっては立ち消えとしているうちに、気力も失せてしまったのかもしれないと思うと、非常に辛かった。
岩手県宮古市田老町では、孤立したお宅にお住まいの方であるが、向かい合わせの家でご葬儀を出したりしている。その隣の家にお住まいの方はゲッソリと痩せておられた。「随分とお痩せになりましたが、どうなされましたか」と聞くと、「ずっと入院していたんです。もう帰れないかと思った」と言って堰を切ったように涙をこぼされた。
この僅か7軒しかなくなった孤立集落のうち、一人暮らしであった方2名が亡くなり、1名が瀕死の重体になって入院していた。3年半経った今頃になって、どっと震災の影響が出てきているように思えてならない。今後も定期的な訪問で、少しでも元気づけられるような働きをさせていただきたい。
福島県においては、教会訪問が主な活動になるが、こうして救援隊との繋がりが出来、常に私たちの活動にご祈念くださってある。また、岩代郡山教会の橋長先生ご夫妻や信奉者の方々は、ご自身も震災・津波・放射能・放射能問題に関する風評被害の四重苦に耐えておられるにもかかわらず、我々が支援している宮城県石巻市牡鹿半島小渕浜のワカメ支援を行ってくださってあり、本年は、1箱15キロ入りのワカメを26箱も買ってくださり、ご支援くださっている。「小分けにするにしても、本当に大変な作業じゃなかったですか?」とお伺いしても、奥様は「でも、楽しかったよね!」とおっしゃり、逆境を逆境とも思われない信心のご姿勢を窺い知ることができた。
原発事故発生後1年ぐらいは外で子どもの遊んでいる姿が見えなかったのだが、その時と比べると、今回、街中で子どもが遊ぶ姿が見られた。そのことをお伝えすると、福島教会の金光榮雄先生は、「そうですね。だんだんと除染もされてきました。開き直っている部分もあるが、そうでないと生活自体ができないから。しかし、原発の問題は現状としてはまだまだ予断を許す状態ではない。廃炉まで40年、自分たち大人のことよりも、子どもたちの未来が心配です」とおっしゃった。
会津野伏教会の生沼幸子先生は、相変わらず私たちにあたたかいご教導をくださり、なかでも印象的だったのは、教会を出たときに掲示板に書かれていた内容であった。それを紹介してこの報告書を終わりたい。
「天地の恵みをいただいて、今あることに感謝する、人生とは、前進あるのみ」
このように書かれてあり、非常に力強いものを感じた。
未だ仮設住宅に暮らす避難者が何十万人も居る。孤立した家に暮らし、日々生きる楽しみすら見つからないまま辛い生活を余儀なくされている方たちがたくさんいる。その方々のために今後も力を尽くしたいと思う。
以上、第26次災害派遣の報告とさせていただきます。
教区の先生方はじめ、信奉者の皆様には、いつもいつも、ご祈念、お祈り添え、温かいご支援の数々や、励ましのお言葉を頂戴し、本当にありがとうございます。
おかげをいただき、事故や怪我もなく支援を続けさせていただいております。
今後とも、被災された方々への継続的な支援を行いたいと思っておりますので、お力添えを賜りますよう、どうぞよろしくお願い申し上げます。