第二十四次災害派遣活動

派遣報告書
第24次派遣


第二十四次災害派遣活動
及び、伊豆大島における救援活動報告書

2013年11月24日(日)~12月3日(火)

平成25年10月15日から16日にかけて、台風26号が関東地方を襲った。関東地方に接近・上陸する台風としては、10年に一度の規模であるとのことで、相当な被害をもたらした。特に、伊豆大島においては土石流が発生し、35人が死亡、未だ4人が行方不明である。
私たちは11月24日に大阪を発ち、25日、26日と救援活動に行かせていただいたのであるが、現地の様子はというと、特に被災が酷かった元町神達地区は、山間部の山肌ごとごっそりと流出し、その土石流は山からの傾斜地にある集落を次々と飲み込んだ。なぜか道路だけを残して、家は土台も残っていないものがほとんどであった。

伊豆大島教会には大きな被害はなく、大沼先生もご無事で、私たちの訪問を非常に喜んでくださった。しかし、信奉者の方の家が全壊したり、お亡くなりになったりしたとのことであった。また、大沼先生のお嬢さんが嫁がれたMさん宅は残念ながら被災されてしまった。そのお宅の場所は、先に述べた神達地区の西方下流部に位置する。15日夜からの暴風雨で、気づいたときには、裏方から土砂等が家の中に流れ込み、避難を余儀なくされたとのことで、伺ったお話は、非常に壮絶なものであった。

結局、土砂は腰から胸のあたりまで襲い、私たちが見たその家には、くっきりと、土砂が襲った痕が残っていた。

そのMさん宅は、ご主人も熱心な信奉者であることから、家を新築する際、教会の祭場と、祭員の控え室を家の中に造られ、教会の大祭などは、そちらでお仕えされるとのことであった。なんと、その祭場のご神前と祭員控え室は、土砂や水に浸かることはなかった。

私たちは、二日間にわたって、そのお宅の外壁を洗ったり内部のお手伝いをさせていただくことができた。
しかし、そこらじゅうに手向けられた花がしおれている現実を見ると、実際には、やはり、行くのが遅かったと反省させられる。一体、何のための救援隊発足であったのかと思うと、悔しくて涙が出た。

11月15日をもって、自衛隊が撤退し、また、11月25日をもって、社会福祉協議会における島外からの一般ボランティア募集が打ち切られた。私見であるが、来てくれて、救援活動や行方不明者の捜索に尽力してくれたことに感謝する気持ちが半分、おそらくもう半分は、未だ見つかっていない4名の方の捜索や、たくさん残された作業は一体どうなるのだろうかという不安の気持ちを住民は抱いているであろうかと思う。
まだまだ、支援が足りていない。今後とも、何か動向を見据えた援助を考えていきたいと思います。

さて、27日からは、東北の救援活動に向かった。
福島県から順に、宮城県、岩手県まで訪問することが出来た。
福島県で、特に印象深かったのは、岩代郡山教会に訪問の際に教えていただいた情報であるが、まず、教会内での放射線量、だいたい0.23μSv/h(マイクロシーベルトパーアワー。つまり、1時間に0.23マイクロシーベルトの放射線を浴びているということ)であるということであった。ちなみに、大阪で0.07μSv/h程度である。

これでも、だいぶマシになったと、橋長先生はおっしゃったのであるが、続けて先生は、もっと酷い現状を教えてくださった。
それは、実は、教会の一部分は、そんな数値ではないということであった。実際に、その測定の資料も見せていただいたが、酷い場所では、7.35μSv/hという数値もあった。
国の基準の最高値が0.23μSv/hなので、これは大変な数値である。

除染のことを伺うと、教会の駐車場に約1メーター四方の穴が掘られてあり、そこに除染後の廃棄物を埋めているそうで、つまり、除染をしても、その廃棄物は処理場がないため、どこにも持っていきようがないのである。ですから、どちらの家庭においても、そのような状況であることを知った。
橋長先生は、やはり、今後40年、50年かかる問題で、自分たちの代では決着が付かないと、腹の内を教えてくださった。

その橋長先生は、自らも被災し、放射能問題による三重苦のご苦労をされているにもかかわらず、あるときに小渕浜のワカメ(私たちが訪問している宮城県石巻市牡鹿半島小渕浜でいただいたワカメ)をお送りしたところ、被災地に協力したいというお気持ちから、大量にその小渕浜のワカメを取り寄せられ、祭典のたびに、販売された。その販売されたお金でまた小渕浜のワカメを買い・・・ということで、十数回も小渕浜に注文を入れてくださった。さらには、フォーゲルの機関紙にもそのことを宣伝され、全教からたくさんの方が注文をしてくださった。小渕浜のワカメの網元の方も非常に喜ばれている。(詳しくは金光教フォーゲル倶楽部「ひかり」No.18)

さて、宮城県では、9ヶ月ぶりの訪問ということもあり、「もう会えないかと思っていた」「お昼は絶対にうちで食べてってくれ」「漁でシャケがとれたからイクラを持ってって」などと、それぞれに喜びを表現された。なかでも、印象に残った言葉は、「家が流されてなくなったり、仕事がなくなったりして、震災は辛かったけど、もし、あの震災がなかったら、あなたたちにも出会えなかった。この出会いが私にとっての財産です」と言われたことであった。

この9ヶ月の間に、ごく一部の地域では様々な状況が変わっていたり、対照的に、残念ながら全く何も変わっていないところもある。
全体的に海の仕事では、漁港や漁場が復活したり、今年は豊漁であったと聞く。アワビもたくさん獲れたと聞くし、カキは大きく成長し、タコも銀シャケもよかったと聞いた。

宮城県石巻市牡鹿半島にある小渕浜では、私たちもお世話になった、割烹民宿「めぐろ」が大改装中であった。第7次の復興予算でやっと補助が出るということであった。

小渕浜にある、あと2軒の民宿、「あたご荘」と「後山荘」は、早い段階で予算がおりたそうで、新築落成されていた。
「めぐろ」の大将は、「跡を受け継いでくれる者のために、最後の仕事だ」と言い、女将さんは、「結婚してから、全く休んだこともなかった。初めてこんなにゆっくりしています」と、今までに見たこともない笑顔を見せた。

小渕浜の高台移転の問題は、これまでにも何度かお伝えし、2転3転している。今回聞いた話によると、非常に不便な場所に移転先が決まったとのことで、これでは漁師は立ち行かないし、これから高齢化して車に乗れなくなったら、住民はどうすればいいのかと、頭を悩まされていた。
同じ牡鹿半島にある小網倉浜地区の仮設住宅を訪問した際、Aさんというお宅が留守であった。私たちの呼びかけに応答すらなく、ガランとしていて、住んでいる気配さえなくなっていた。

そのAさんとは、この小網倉浜地区で一番初めに知り合った。海沿いの、完全に1階が津波に破壊され、流されて、それでも頑張って、2階に何世帯もが同居していた。震災から1年以上経って、「やっと仮設住宅が当たったのよ!」と興奮気味に嬉しそうに話される姿が非常に印象的であった。私たちがその仮設住宅の外で炊き出しをしようと準備を始めたときに、大雨が降り、断念を余儀なくされたときには、「あら、大阪のお兄ちゃんたちじゃない?私たちのために炊き出しをしてくれるの?嬉しい!雨が降っているじゃないの。私が地区の会長に掛け合ってくるから、仮設の集会所を使って!」と言って走ってくださったこともあった。
どこかに引っ越したのか、時間もないので、次の地区に行こうとしたとき、近所の方が出てきて、「そこはもう、住んでいませんよ」と教えてくださった。
「どちらに引っ越されたのですか?」と訪ねると、「海沿いに、引っ越しました」と答えられた。
海沿いには1軒だけ新築が建っており、あの家だったらいいのにな。と思い、引越し先を探し回ったら、その新築が、阿部さんの新しいお宅であり、手を取り合って喜んだ。

Aさんは、あのとき、こんなことをしてもらった、こんなことをしてもらったと、私たちは既に忘れていることなんかも、覚えていてくださっていた。
新しく家を建てて、仮設住宅から出て行く方は非常に少ないなか、私たちが訪問している先の方が頑張っておられる姿を見ることが出来、本当に嬉しかった。
しかし、先にも記したように、仮設住宅に住んでおられる方々の、高台移転の話も、住民の意見や、海の仕事を生業とする方々の意見を聞くこともなく、行政が決めてしまっていたり、移転先候補地の問題、利便性の問題、若者が被災地を離れて都会に行くといった問題が次々に起こっている。
津波で流され、更地になった、国道398号線(石巻から女川・牡鹿半島に行く際に通る道)を境に北側(山側)は新しく建物を建ててもよいが、南側(海側)は新規に建てることを規制されている。実際、通行時に眺めていると、北側にはパラパラと新築が進んでいるが、南側は手つかずの更地が広がっている。たった一本、たった2車線の道を隔てて、高さも変わらない。どこにその境があるのか、私にはわからない。

もし、同じ津波がきたら、必ず同じように流される。そんな中でも、不平等がある。なんとも言葉にし難い現実を目の当たりにしてきた。
現実的には、先の話のように、新しく家を建てたりする話は、ごく稀な話でもある。
そんな状況下で、被災者も私たち救援隊も、悲喜こもごもであるが、これからも、動向を見据え、少しでも力になりたいと願う。

中近畿教区の先生方をはじめ、信奉者の皆様には、いつもいつも、お祈り添えを賜わり、暖かい励ましのお言葉や、数多のご支援をいただき、この度も事故や怪我もなく、無事に活動を終えさせていただくことができました。
ありがとうございました。