第二十次災害派遣活動

派遣報告書
第19次派遣

第十九次災害派遣活動
2012年6月18日(月)~6月25日(月)

6月11日、金光教大阪災害救援隊の会議の場が大阪センターにて持たれた。
それはおそらく、誰もが思っていたことの決定となる会議の場であった。

つまり、終息の時期の決定である。会議では、組織の決定により、8月をもって定期的な派遣は終息、ただし、一応の区切りとして、8月の最後の日曜日(8月26日)に昨年と同様、被災地にて「夏祭り」を行なうこととなった。
この夏祭りについては、実は被災者からも我々救援隊の隊員のほうからも前々から願っていたことであった。そして前々から、ぜひとも一緒にやりましょうと、大阪教会の親先生や玉水教会の親先生からも声をかけてくださっていた。
しかも、大阪の親先生からは「落語家さんにボランティアで行ってもらいましょう。段取りは私がつけます」と言っていただいており、また、玉水の親先生からは「音楽の力で被災者の心が少しでも癒えたらいいですね。玉水教会の『OTO倶楽部』と一緒に行きましょう」と言っていただいており、準備にかかる前から、非常に感激している。

教区の皆様にも、大阪センターを出発して2泊3日(車中2泊)の行程を組んでおりますので、最後、一度行ってみようと思われる方がおられましたら、大阪センターの方までお問い合わせ願います。(先着で満席になり次第打ち切りです)

さて、残すところ、あと3回となった第20次派遣の今回、時間や準備の都合もあり、炊き出しを2箇所(小網倉浜と小渕浜)と孤立集落の訪問に徹した。
小網倉浜の炊き出しでは、泉尾教会から参加してくれた三宅三姉妹が、非常に元気よく動いてくれ、その明るい彼女たちを見た被災者が元気をもらって帰っていかれる姿を見た。
活動も順調に行なえていたのであるが、どうしても、最後の小渕浜の炊き出し時には、4人で約400人分の炊き出しを行なうということになっており、隊員も覚悟はしていたが、誰も一時も休むことなく、普段よりも急ピッチで作業が進められた。

そのとき、私の心の中には一抹の不安と不足があった。「はたして4人で時間までにこなせるであろうか」「時間が経つにつれて、あの大惨事のことも風化しつつあり、ボランティアもだんだんと減ってきて、なかなかみんなの意識も薄いな」ということを思ったのである。
ちょうどそう思っていたときに、一匹のハエがブンブンと目の前を飛んでおり、不衛生だし、うっとおしいなと思った私は、右手でハエを追い払ったのだが、そのとき、右の腕にはめていた数珠状のブレスレットがバチンッという大きな音とともに切れてバラバラに飛んでいった。
非常にたいそうな音がなったためか、他の隊員たちは心配をして、バラバラになったものを拾ってくれようとしたが、非常に忙しい状況のなかでのことであったので、「ほっといてくれていいから、自分の持ち場のことをやってくれ!」と言い、私自身も、そこにあるいくらかは拾えたのであるが、結局半分も見つけられなかった。

ブレスレットは紐を4本も通しており、非常に丈夫なはずであったのにな。しかも、とても気に入っていた物なので残念だな。と思いながら、とにかく弁当が出来たら孤立集落に配達に行こうと「弁当が100個出来たら、配達に行くから、さらにペースをあげよう!」と隊員にはっぱをかけた。
そして、弁当100個が出来上がり、鈴木隊員と出前に行ったときのことである。
何軒かのお宅に弁当を届け、佐々木さんという漁師さんのお宅を訪れた際、そこの女将さんが、「本当にいつもいつもありがとうね。ちょっと渡したい物があるから、待っててね」と言って、急いでプレハブの2階に駆け上がった。

いつもお菓子や飲み物をご馳走してくださるので、私は、またそれだなと思い、遠慮をして「お母さん、もういいから、今日は急いでいるから」と言って立ち去ろうとしたのだが、女将さんは「いいから、ちょっと待ってなさい」と言って急いで2階から降りてきた。
女将さんは何も持っていないように見えたので、きっと、何かを探したけれど、なかったのかなと思い、「お母さん、いいからね。じゃ、また来るからね」と言って、次のお宅に向かおうと後ろを振り返る瞬間に、その女将さんに右腕をグッとつかまれた。
私は、エッ?と思ったのだが、女将さんは「これをあなたにあげようと思って!」と言って、後ろ手に隠し持っていたものを、私の右腕にはめたのである。
それは、石が数珠状に連なったブレスレットであった。

私は非常に驚いて、「こんな高価なもの、もらえません!」と言ったのですが、女将さんは「いいの。私たち、何かしたいとずっと思っていたから。どうしても、あなたにもらってほしいと思っていたの」と言って、大切なブレスレットをくださったのである。
私のブレスレットが切れた、わずか数時間後に、ブレスレットをいただく・・・・・。これが、どれほどの確立であろうか。
非常に無粋な表現であるが、私には、やはり、神様がずっと寄り添ってくださっていて、私が不足に思ったことに対してのお諌めと、神がついておるのだから、人数が何人であろうとさせてやる。と教えてくださり、御印までくださったのだと思い、非常にもったいないことであった。
ブレスレットが切れるところからの、一部始終を見ていた鈴木隊員の方を見ると、まるで漫画の一場面のように、ポカーンと口を開けて、一言の言葉も発せないでいた。

炊き出し場所に戻って、皆にそのことを告げると、皆も非常に驚いて、それぞれに神様を感じ、さらに士気が上がり、無事に炊き出しを終えることが出来るということがあった。
そして、今回の孤立集落訪問では、間もなく活動が終わることを告げるという非常に酷な役割があった。

私が訪ねたときに、顔に出ていたのかもしれないが、なぜか、相手の方から「いつまで?」と聞かれることも数軒あった。私は「8月までです」と言うと、被災者の方は、じわじわと涙を浮かべられたり、悲しそうな顔をされるのが、見ていて非常に辛かった。
しかし、皆さんが口を揃えて言われることが、「ボランティアが誰も来なくなっても、あなたたちだけは、ずっと来てくれたもんね。会えなくなるのは淋しいけど、本当にありがとうね」と言われたり、「あってはいけないことだけど、もしも大阪で何かあったときには、一番に駆けつけて恩返しをするからな」と言われたり、それぞれであるが、本当にこの人たちの心の少しでも支えになれていたということが伝わり、嬉しかった。
最初はどうなることかと思った被災地への災害派遣であったが、20回も続いた。これは、ひとえに、行って来い、ご用をしてこい、被災者の力になってこいと、送り出してくださった中近畿教区の皆様のお祈り添えのおかげでありますし、また、回数を重ねるうちに、被災者のほうからも、また来てもらいたいと願われていたからに違いない。

実際に、被災者からもらった手紙の中にもこのように書かれてあった
「竹内先生達の後ろで被災地に来なくても、信者さんたちが寄付(御布施と言うのかな)してくれて…被災者のもとへと物資や炊き出しをしてくれていたんですよね。一年以上も。私は分かっているつもりでいます。・・・中略・・・今まで支援して下さった皆様にもよろしくお伝え下さい☆そしてその後、先生達が来れなくなっても気にしないでくださいね。皆さんからの恩は一生忘れる事はありません」
組織の決定がなされた今、私にできることは何か、限られた時間のなか、一日、一時を無駄にせず、最後の最後のときが来るまで一生懸命にやりたいと思う。
以上、簡単ではございますが、第20次災害派遣の報告とさせていただきます。

中近畿教区の先生方をはじめ、信奉者の皆様には、いつもお祈り添えを賜わり、暖かい励ましのお言葉や、数多のご支援をいただき、この度も事故や怪我もなく、無事に活動を終えさせていただくことができました。
ありがとうございました。