第十八次災害派遣活動
2012年4月2日(月)~4月7日(土)
災害派遣18回目の今回、炊き出しも回数を重ね、8回目となった。
前回の報告書にも記載したが、阪神淡路大震災時の曹洞宗が行なった31万食の炊き出しには到底敵わないが、今の時点で、のべ3348食の炊き出しを行なっている。寒い時期には「おぜんざい」などの温かいもの、年末年始には、「もちつき大会」など、工夫を凝らしてやってきた。
そして、金光教大阪災害救援隊伝統のとして定番化してきたメニュー、今回もそのメニューにて炊き出しを行なった。もちろん「焼肉丼」である。
「焼肉丼」の日には、子どもたちまでもが喜んで手伝ったり、はしゃぎ回ったあとで、その場で弁当箱を開けて、口いっぱいに「焼肉丼」をほおばる。笑顔がこぼれる。
わかめの網元で、非常に忙しい、Iさんは、私たちと同年代で、最近では共に食事をとったりする仲になってきた。
Iさんは、早朝から夕方までの重労働(わかめ作業)をこなした後、私たちの炊き出しを手伝ってくれる。私たちは「もういいから、ゆっくりしてよ。疲れているんだから」と言っても、彼女は休まない。「平気平気。浜の女はね、こんなくらい平気なの。竹内さんたちこそ疲れているのに、いつもいつもありがとうね。ほら、みんな(遊んでいる子どもたちに向かって)やるよ!」と言うと、そこらへんで遊んでいた子どもたちが、一斉に手を洗い「はい。ボス!」と言って、手伝ってくれる。
浜の女は本当に頼もしい。
最初、4人で行なうつもりであった炊き出しが、この日も最終的には総勢11名にて行なうことができた。
小渕浜での炊き出しに、前日の広報から手伝ってくれた小学校4年生の少女は、震災による津波で、母親と中学生の兄を亡くした。今は妹と父親の三人暮らしであるが、前日の広報が終わった際、「Mちゃん、明日も手伝ってね!」と言うと、「うん。わかった」と言ってくれ、次の日も朝から手伝ってくれたのであるが、妹が来ないので「あれ?Sちゃん?」と聞くと、「石巻に行った」とだけ答えた。
特段気にすることもなく、作業をすすめ、昼食も私たちと同じ手作りの昼食を食べ、「おいしー!」と言って楽しい時間を過ごしたのであるが、妹が帰ってきたときに、しまった!と思うのであった。
その日は、石巻でオモチャを買ってもらえる日であったのである。
私たちの「明日も手伝ってね!」という一言が、少女の足を止めてしまったかと思うと、本当に自責の念に駆られるのであった。
「ミィちゃん、悪かったね」と言うと、彼女は、「お兄ちゃんたちと一緒にいるほうが楽しいから」と言ってくれたのであるが、もしかすると、女性隊員の姿は亡くなった母親と、私たち男性の隊員は、亡くなったお兄ちゃんの姿とかぶっていたのかも知れない。
この少女が抱えた痛み、傷、悲しみは、計り知れないと思った。
そして、私が全員に指示をしているのを見て、この人がOKと言えば大丈夫なんだろうと思ったに違いない。少女は「ねえ、お兄ちゃん、今日はここに泊まっていきなよ。ねえ、いいじゃん。終わったら遊ぼうよ。IちゃんもYちゃんもいるしさ、泊まってきなよ」と、非常に懐いて言ってくれた。
「今日はワカメのボランティアがここに泊まるみたいだから、また今度ね」と言うも、「いいじゃんいいじゃん。泊まっていきなよ。あっ、じゃあ、車に泊まればいいじゃん」と言ったのであるが、最後に私たちの車が、荷物がいっぱいで悲惨なことになっているのを見て、「やっぱ、次回でいい」とあきらめてくれたが、次回はもう少し余裕を見て、ふれ合ってあげたいとも思う。
ワカメが始まった被災地では、季節労働者やボランティアがたくさん訪れ、活気に満ちている。
ワカメは今年、最高の値がついたそうで、良いところでは、去年(と言っても去年はほとんど出荷できていないが)の2倍もの値段がついたそうだ。
網元に話しを伺うと「ここまでこれたのも、あんたたちのおかげ。ありがとう。次はカキが始まれば、海は復旧ではなくて、復興だ。陸のほうはまだまだだけれど、海はもう大丈夫だ!」と力強く語られ、作業にも力が入っている様子であった。
しかし、女川町の孤立集落を訪問すると、非常に辛い話しも聞かされた。
女川町は人口の約10パーセントの方を津波による被害で亡くされている。その高台にある約10軒の孤立したお宅を毎回訪問するのであるが、高台のあるお宅を訪ねると、次のような話を聞かされた。
「私たちには孫がいるのですが、その孫は、弓道をやっており、県大会、東北大会で1位となり、推薦で大学まで決まっていた。今年の春から大学生になると本人も楽しんでいたのだが、津波で家を流され、家の建て替えにお金がかかるので、泣く泣く進学を断念して、就職をした。かわいそうで仕方ない」と言って涙を流された。
就職した先は、『高政』という、女川町では一番の蒲鉾加工・販売の老舗である。
私たちは「おばあちゃん、その人にとって、何がいいか、何が悪いかわからないよ。いつか、Yさん(孫の名前)も笑える日が来るといいね」と言って、悲しみと悔しさで胸が張り裂けそうになりながら、その場を後にした。
そのような方は、私たちのまわっている孤立したお宅にも何人もおられ、氷山の一角にしか過ぎない。
何度も言うのだが、先に記した小4の少女にしても、この大学進学を断念した女性にしても、このような方がおられるということではなく、このような方ばかりなのである。
そのような方たちに、「一筋の光」「あなたたちに勇気と希望をもらった」と言われては、私たちも立ち上がらないわけには、絶対にいけない。
中近畿教区内の信奉者の皆様にも、未だ、私たちの支持をしてくださる方が多くあり、本当に直接、被災者の方々にその気持ちが届いています。今後ともよろしくお願いいたします。
以上、簡単ではございますが、第18次災害派遣の報告といたします。
中近畿教区の先生方をはじめ、信奉者の皆様には、いつもお祈り添えを賜わり、暖かい励ましのお言葉や、数多のご支援をいただき、この度も事故や怪我もなく、無事に活動を終えさせていただくことができました。
ありがとうございました。