■第十一次災害派遣活動報告書
2011年9月24日(土)~9月30日(金)
◎全体を通して
今回は、東北慰霊復興祈願祭参拝、岩手の被災地訪問、宮城県の被災地訪問、宮城県の被災地での炊き出し。という目標を持って活動を行った。
復興祈願祭は、参拝者350人以上という、延期になったにもかかわらず、非常に主催者、参拝者ともに願いのかけられたものであった。祭主の先生も祭詞奏上の折には声を詰まらされ、この半年間、東北の方々がいかに辛い思いをしてきたかがこのような場面においても窺い知ることができた。ただただ、一日も早い復興を祈願するしかなかった。岩手県の救援活動には、「みちのくボランティア隊」からN隊員が参加してくれた。そこでは、今後も力を合わせて救援活動を行おうと、再び意気投合することができた。さて、その岩手県であるが、宮古市・釜石市・大槌町・田老町は、どこも変わり映えのしない様子に驚かされた。8月で自衛隊が撤退したのは皆様もお分かりかとは存じますが、その後、特にボランティアが多く入っているということも見受けられず、2ヶ月前に初めて訪れたときと何ら変わっていなかった。車もグシャグシャになって、ひつくり返っているままの光景があちこちで見られる。街の中心部でも、商店のシャッターに車や瓦礫が入ったまま放置という光景にも目を疑うのであるが、これが交通事情の悪い地区の現状なのだと思わせられる。
そんななか、孤立した地域を訪問するのであるが、岩手県の被災者の方々は、どこの地区においても、非常に喜ばれる。それは、買い物に行くのが非常に不便で、バスの本数も少なく、料金も高いということもある。自転車に乗って、瓦礫の粉塵、トラックや風が巻き上げる砂挨を吸い込み、異臭のする中、30分、40分もかけて買い物に行く。それでも、買いに行けるようになったからと喜ぶ被災者を見るど、本当に切なくなる。その中で、少しでもと物資を持って訪ねる私たちの物資も値千金なのであろう。非常に喜ばれ、そんななかでの信頼関係が築かれつつある。
今回は、実は、「みちのくボランティア隊」に岩手を引き継ぐつもりで訪れたのだが、やはり、我々も足を伸ばして救援活動を行わなければならないという気持ちを新たにした。宮城県においては、先日「夏祭り」を行った小渕浜周辺では、私たちは非常に有名になっており、最初は出さなかった「金光教」という宗教色も、今では堂々と表に出している。村のみなさんにも、「あっ、また来てくれたんだね!ありがとうね。漁でヒラメがとれたから、今から一緒に食べて、一杯やろう」と誘ってくださったり「ここを拠点にボランティア活動を行えばいい」と、部屋の提供を申し出てくださる方も多くおられる。また、どこのお宅を訪ねても「とにかく家にあがってくれ!」と、お茶を振る舞ってくださり、小渕浜では、常にお腹がダブダブの状態である。
民宿「めぐろ」にては、先日の「夏祭り」にてご尽力くださったお礼もあり、津波で流されてしまった大浴場の新築完成にあわせて、金光教大阪災害救援隊寄贈と名前の入った暖簾、椅子、風呂桶を持参し、寄贈式を行った。大将も女将さんも大層喜ばれ、調子が悪くて寝込んでいた女将さんも非常に元気になっておられた。また、漁に出ていた大将の帰りを待っていたのだが、港(歩いても5分だが)まで迎えに行ってきてほしいと女将さんに頼まれたので、めぐろの自動車で迎えに行った。港はこれまでにも何度も記してきたように、地盤がかなり下がっているのだが、この日、沖で地震があったらしく、一気に水が港に流れ込んできた。最初は漁師さんたちと談笑していたのだが、車のタイヤが半分くらい水に浸かったので、最後は全員で逃げるはめになった。漁師さんたちは、こんなことはよくあると言っていたが、水のスピードが異様に速く、津波の恐ろしさを少し体験することになった。また、私たちが訪れる前に、紀南地方を襲った台風15号は、東北のこの被災地にも強烈な爪あとを残していた。この小淵浜も道路は陥落し、しばらくの間、孤立状態にあった。牡鹿半島もそうだが、この被災地全体においても、いたるところで土砂崩れや土石流による道路崩壊の様子が見られた。しかし、あるお宅を訪れ、私たちが「台風のときは大丈夫だったの?」と聞きましたら「そんなことまで心配してくれて本当にありがとう。あなたたちが、また、こうやって見に来てくれるから、本当に心強いわ」と、言ってくださった。少しでも被災者の心の支えになることが出来て、本当にありがたく思う。
ずっと通い続けている旧北上町小室地区にお住まいの、居酒屋の女将さんは、やっとプレハブでお店を再会したところであったが、残念ながら、台風で居酒屋の屋根が飛ばされてしまい、屋根ははがれ、中が水浸しになってしまっていた。しかし、気丈に振る舞われ「また直して、お店を始めるから!今度こそは、呑みにくんだよ!ご馳走すっから!」と言ってくださった。今までにも、訪問のたびに「今までのお礼をするから呑んでいってくれ」と誘われたが遠慮してきた。次にお店が復活した際には、祈念を込めたご神米を持参してご馳走になろうと思う。
今回の救援活動で、一番印象に残ったのは、女川町から少し北上したところに、竹浦漁港という集落がある。約100世帯くらいの集落であるが、1軒の家を残して、全ての家が津波で流され、壊滅している。そして、そのたった1軒だけ残った家の住人も女川町で被災し、ご家族全員が亡くなった。その家に、雄勝町で家を津波によって流された姉の夫婦がしばらく仮住まいをしており、震災以降、派遣のたびに伺い、親しくしていたのだが、あるとき、引っ越してしまっていた。「新しい家を探しているので、決まり次第引っ越すのよ」とは聞いていたのだが、あるときからお留守になっており、もう会えないかと思っていたのだが、この第11次派遣のときに、最後にもう一度訪ねてみようと思い、台風で陥落した道を通って訪ねた。遠くから見ても、住んでいる様子はない。しかし、何かドアの内側に張り紙がしてあるのに気づき、皆で駆け寄った。すると、このような書き置きがしてあった。「大阪よりのボランティアの皆さんへ。いつも元気を頂いている大阪から来てくれる、私の息子、娘さんたちへ。新しい住所で過ごしています。未だリフォーム中ですが、遊びに来てまた元気を分けてください」と書かれてあり、そのあとには、丁寧に住所や電話番号、手書きの地図まで添えてあった。私たち隊員は一同にその場で絶句し、すぐにでも行きたいと思ったが、その引越し先は、仙台市内ということもあり、この日は予定していた地域を訪問した。
次の日は最終日で、アパートの清掃や荷物の整理をして帰るだけの予定であったが、隊員全員の希望で、そのお宅を訪ねた。そのお宅はすぐに見つけることができた。我々の滞在するアパートから、およそ20分くらいの距離であった。もしも間違っていては失礼なので「こんにちは」と小声で言いましたら、声でわかったようで、ご病気で足が悪いにもかかわらず、号泣しながら走って駆け寄ってこられ、感動の再会を果たすことができた。これから東北の被災地には、長く寒い冬がやってくる。この第11次災害派遣においても、すでに、大阪とは10度も気温が違っていた。今回は残念ながら、時間の都合上、炊き出しは出来なかったが、次回以降「おぜんざい」などの炊き出しを企画している。体が温まり、心が温まるような炊き出しを行いたい。
時間が経つにつれ、派遣の回数も徐々に減ってしまうのは仕方のないことであるが、とにかく、一人でも多くの方のお役に立たせていただきたいと思う。このたびの災害派遣も、教区の皆様をはじめ、全教のお祈り添えのもと、無事に終えさせていただくことができました。今後とも、あたたかいお祈り添え、ご支援、賜わりますよう、よろしくお願い申し上げます。