○全体をとおして
「熊本地震」における災害派遣において、現在、我々は仮設住宅の集会所において「炊き出し」を行っていることはご周知のことと思うが、そのきっかけを作ってくれたのが、大阪大学大学院生の崎浜公之氏である。
8月の炎天下、「炊き出し」の開催場所を探し、「IKIMASU(いきます)熊本」という現地ボランティアの敷地を借りたことがある。(被災して全壊した益城町の木山教会から300メートルほどの距離にある)
今思えば、小崎由衣氏との出会いもその日、その場所であったが、その日に限って木山教会のお嬢さんが、「阪大の先生方が来られていますから、教会に来てください」と、呼びに来てくださった。
私は内心、稲場教授とも何度もご一緒しているので、わざわざ呼びに来てくれなくてもと思っていたが、それがご縁であった。
教会には大阪大学大学院の渥美教授をはじめ、大学院生の崎浜氏、大門氏など大阪大学でも最高レベルの方々がおられ、活動の話で盛り上がり、意気投合した。
渥美教授はそうとう情の厚い方で、我々の活動には感激なさり、私のことを「生き別れた弟だ」と言って、次回の参加を約束してくれた。そしてここまで何度も自身の研究チームを率いて活動に参加してくださっている。
そこで出会ったのが、この崎浜氏であり、行政、社会福祉協議会、仮設住宅との連絡係を買って出てくれた。その働きは、寸分狂うこともなく、痒いところに手が届くようなことであり、我々の前進をけん引してくれるほどであった。あたたかい心を持ち、我々の活動が妨げられるような危機に瀕したときには行政に対しても理論的でありながらも、時に声を荒げるほどの働きで、おかげで交渉事にも無駄がなく何事も相談しながらスムーズに事が運んだ。
その崎浜氏とは、それ以来ずっと一緒に活動をしてきたが、このたびの第11次派遣に関しては、「大阪から一緒の車に乗せていただけませんか」と打診があった。
いつもは飛行機で飛んでくる彼なので、「どうかしたのか」と尋ねると、「ここまでバイトなどをしてなんとかやってきましたけれど、ついに軍資金が尽きました」とのことで、白神隊長に相談の結果、快く車に同乗してもらうことになった。
そして、車に乗って話していると、「実は報告があるんです」と言い、「なんでしょうか」と尋ねると、「お世話になった白神隊長をはじめ、先生方のおかげで、私、大阪大学修士課程において最優秀論文をいただきました。それで、先生に一部、どうしても渡したくて持参したのですが、お渡ししてもよろしいでしょうか」とのことであった。
私は自分のことのように嬉しくなり、「もちろんいただきますが、ここではなく、また現地に着いてからいただきます」と言った。当然、贈呈式にはセレモニーが必要である。
「炊き出し」の初日、14名のスタッフが集まった。この時が一番今回の派遣で人が集まるときだと思い、「炊き出し」開始3分前に全員集合の声をかけた。
既に「炊き出し」の行列が何十メートルにも延びてきていた。様子を知った住民の方が中を覗き込む場面もあったが、ここで贈呈のセレモニーを行った。
崎浜氏は、「この安永仮設のことで論文を書きました。本当にこの最優秀論文がとれたのは、白神隊長、竹内先生、木山教会の矢野恵美子先生、道代先生をはじめ、みなさんのおかげです。本当にありがとうございました」と挨拶をし、スタッフの拍手を浴びた。
なんと受け取った論文は、17万字にも及ぶ大作であり、最初のページに金光教大阪災害救援隊の文字もみられた。
私たちの活動に関わり、ともに活動を進めた彼が最優秀論文に選ばれたことを誇りに思う。隊員一同も同じ気持ちであろうと思う。
さて、話は前後するが、到着した次の日に設営、準備、仕込みを行うことが熊本でのパターンとなっている。このたびも例外なくそのようにし、順調に準備をすすめるなかでお昼をまわったので昼食を皆でとっていたときのことであった。
住民の男性が血相を変えて駆け込んできた。
「どうかしましたか?」と尋ねると、
「AEDを取りに来ました。お借りします住民が倒れました」とのことで、一斉に隊員は立ち上がったが、昨年、防災士の資格を取った私が一番適役であろうと思い、一旦皆を座らせ、「全員で押し寄せると住民が混乱するから、私がいきます。なにかあったら呼ぶから、それまでここで待機」と言って向かった。
駆けつけると、管理人さんの隣、Kさんとおっしゃる方のお宅で、「炊き出し」にも大変喜んでくださる方のご主人であった。
私は「失礼します!」と言って家に入ると、ご主人は風呂場で倒れたとのことで、見ると、湯船のなかで座り込んでいるような形であった。
「聞こえますかー!!大丈夫ですかーー!!わかりますかーーー!」と声をかけるが反応がない。
AEDを持った方が前にAEDを置く。もう一度声をかける。
「聞こえますかー!!大丈夫ですかーー!!わかりますかーーー!」
すると、微かに動いたような気がしたので、今度は肩に手をかけて、
「聞こえますかー!!大丈夫ですかーー!!わかりますかーーー!」と何度も声をかけると、少しづつ意識が戻ってきた。最後には首をこちらに向けられるようになったので、とにかくAEDをよけて、救急車に電話をしてくれている方に意識が戻ったことを報告、救急隊員に伝えてもらった。
AEDは通常、強制的に作動させない限り、意識のある人には発動しない。効果もない。。。と習ったような気がする。
しかし、恐ろしいことである。今のAEDは一応音声が流れ、誰でも使えるシステムになっているが、講習を受けていない人でも普通に使用できるのである。間違えた使い方をするととんでもないことになる可能性がある。
なにはともあれ、今回は、私たちが滞在する期間で良かったなと思う。
そして、設営、仕込みが長引き、夕方になったころ一台のタクシーが仮設住宅に入ってきた。
仮設住宅の基本的な構造として、ほとんどの場合、私たちが活動を行っている集会所の前を通って出ていき、また前を通って帰ってくるシステムになっている。
そのタクシーが前を通るときに、乗客が見えた。倒れたご主人と奥さんが帰ってきたのである。
私は駆け寄り、「お帰りなさい。こんなにすぐに帰ってこられたんですね!良かったですね!」と声をかけると、ご主人は私に向かって敬礼をし、「恥ずかしながら、無事に帰ってまいりました」とおっしゃり、その場が和んだ。
奥さんによると、「入院を勧められたが、本人がどうしても帰ると言って聞かなかった」とのことで、予断は許さないが、とにかく一安心で、隊員一同も胸を撫で下ろした。
奥さんは次の日にも、何度もお礼を言いに来てくれ、「炊き出し」にも並ばれた。「お弁当、持っていきますよ」とも言ったが、「並ぶのも楽しみにしていたから。ありがとうございます」と丁寧におっしゃった。
本当のことを言うと、ここで起こったことは、代表的なことであり、氷山の一角にしか過ぎない。今後の被災地、仮設住宅で起こり得ることの顛末といえよう。
東日本大震災で入居を余儀なくされた方々の仮設住宅でも、見るに忍び難いほど起こっていることである。
何度もいうが、仮設住宅での暮らしは非常にストレスが溜まる。まず、住み慣れない林の中、山の奥など、土地を求めやすいところに仮設住宅はある。となれば、近くにスーパーマーケットなどの買い物を出来る場所もない。元々隣近所に住んでいた方とは別の仮設住宅になることも多い。プレハブの長屋は隣との壁も薄く話し声もまる聞こえである。おまけに狭い。
仮設住宅の管理人のKさんに、「最近はどうですか?」と聞くと、「狭いのにも慣れました」と強がっておっしゃった。続けて、「家を一から立て直すお金も体力もありませんから、最後は復興住宅に入るしかないと思っています」という心の内を聞いてしまうと、もう、私にはかける言葉もない。
ただただ、この人の、ひと時の安息を神様にお願いしながら「炊き出し」の準備をするしかない。今後も、とにかく自分の一生懸命を被災地に奉げたい。
以上、「熊本地震」第11次災害派遣の報告といたします。
このたびも、事故や怪我もなくご用を終えさせていただきました。神様のおかげをいただき、教区の先生方をはじめ信奉者の皆さまのお祈り添え、まことにありがとうございます。今後とも、お世話になりますが、どうぞよろしくお願い申し上げます。