第二十七次災害派遣活動

派遣報告書
田老地区

 第27次災害派遣は、日程の都合上、3月7日の輔教集会が終わってより夜行で出発した。明け方に福島県を通過し、夜が白み始めると、福島県から宮城県の山々が雪で真っ白く見え、やはり関西とは違う風景に変わる。
 そしてこの頃、大寒波が押し寄せており、被災者に言わせると、4年前、東日本大震災の日がちょうどこのような天候であったと口々に聞いた。私も、吹雪いて、寒くて寒くてひもじい思いをした27回前の第一次災害派遣のことを思い出すと、よくここまでの活動ができるようになったと思う。

 このたびの派遣は、特に現地で4年目の祭典が行われるからと呼ばれることもなく、通常の訪問に徹することができた。「東日本大震災金光教慰霊復興祈願祭実行委員会」では、4年目の祭典は行わず、かわりに東北教区の連合会において3月15日に4年祭を行うということであった。場所は金光教仙台教会。
 
 さて、被災地を訪問して思うことがいくつかあったので、主観的ではあるがいくつかお知らせしたい。これは前回の報告書にも書いたことではあるが、まず目に付いたのが、岩手県と宮城県の復興の差が大きく生じていること。このことは、岩手県と宮城県の境、気仙沼市と陸前高田市の間だに立つとよく分かる。岩手県は復興が早く、海岸線の土地の嵩上げはもちろんのこと、高台への住宅移転が進んでいたり、復興道路の建設に着手しており、早いところでは、この三月中頃に新しく嵩上げをした上に国道が開通するという地区もあった。
 大規模に被災をした陸前高田市は、非常に大きな町だったが、今はそのほとんどが更地になっている。その更地の全面にベルトコンベアーが張り巡らされ、どんどんと作業が進んでいる。住居自体は高台に移すそうだが、流された町の場所は嵩上げをして高台をつくり、公園のようなものを造るようである。その様相はまるで、「夢の未来の街づくり」が行われているようであった。

 一方、宮城県は非常に復興が遅く、一部ではもちろん高台に移住したりという話もあるが、私たちが訪問する先々では、昨年10月と比べても、全くと言ってよいほど進展がなかった。元々、仮設住宅の耐久年数は2年と聞いていたが、もうその倍の4年が経った。仮設住宅は雨漏りがし、床に穴が開いたところもある。ある地区では、高台移転する場所を2箇所に分けたが、まだどちらも着手していない。本年の9月に、ようやく片方を着工するということであったが、全員が新しい住居に入るまでには、まだ5年以上かかると聞いた。
 小淵浜(石巻市・牡鹿半島)のあるお宅では、あと5年も待てないからと、復興住宅の入居を辞退して、自分で土地を求めて他所へ移ると聞いた。ただでさえ浜の人口が減っているところに、やはり9年も待てないからと自分たちで他所へ移る。そうすることで浜自体の住民が減る。現在は震災前の6割程度の人口になっている。この方が悪いわけでは決してないが、負のスパイラルである。
 また別の地区では、復興住宅が完成したのであるが、復興住宅の近くには食品や生活必需品を買える店もないため、新築の家に引っ越さず、利便性のある仮設住宅に暮らす方もいるという話も聞いた。それでも復興に向けて、誰かがサボっているということでは決してないと思う。むしろ、みんなが前向きで、我慢もし、堪え難いところを堪えている。関連死の話も聞く。この4年の問にたくさんの方が新しい家を見ることなく亡くなった。

 上述のように、鬱になって亡くなった方がおられた。この方は、家も高台で流されず、家族を失ったわけでもない。私たちの行った「夏祭り」や「炊き出し」にも喜んで参加してくださった若いご婦人である。震災以降の不自由や色んなことが気になってそういう病気を患われたのだと思う。これはきっと関連死であると思う。相談が出来たりして、私たちに何か少しでも勇気づける役割が果たせたのではないかと思うと非常に残念でならない。
 
 こういった関連死の話がだんだんと増えてきていることが非常に気がかりである。非常に辛く、悲しいことであるが、これまでに何度も話してきた、宮城県・女川町、宮ヶ崎地区に10軒だけ高台で家が流されずに残った場所があり、震災以降、私たちが足しげく通っていた地域がある。その一番高台にお住まいのKさんという方、何度も紹介をしたかと思うが、震災が起こって、津波がその町を襲った際、海に近い場所にあった自分の工場と車を流され、そして、自らも命からがら迫り来る津波から高台へ逃げているとき、その高台の横をガラガラという家や車などのガレキとともに流されていく近所の7人や仕事仲間を見たと言い、流されていく人が、自分に向かって、「助けてくれ-、助けてくれ!」と断末魔の声で言ったが、もう、自分にはどうしようもなかったと、私たちに嘆かれた方ですが、そういう心労が崇ったのでしょうか、そのKさんは、何度か入退院を繰り返しており、病気の原因は、何度診てもらってもわからない。そして、あるときは生死の境をさまようまでに悪化し、医者からはサジを投げられ、自らは意識も薄れつつあるときに、なんと、私たちのことを思い出してくださったという。そのときの本人の言葉は、本当は非常になまりのキツい言葉で、普通に聞いたら何を言っているか全くわからないので、通訳をすると、「俺は、病院でもうダメだと思ったんだ。そしてもう、意識もなくなりかけるときに、あんたのことを思い出したんだよ。大阪から来てくれるあんたたちは、雨の日も風の日も、雪の日には頭に雪を積もらせて来てくれた。そんなあんたたちに、もう一度でいいから会いたいと思ったんだ。そして、絶対に良くなって帰ると決めて、頑張れた」と言ってくださったこともあった。
 その方は、それからは順調に回復傾向にあったが、昨年の10月末(第26次災害派遣)に訪問した際、寝たきりになっており、奥様と話をしているところから見えたので、白神隊長とともに手を振ったら、ニコッと微笑んで手を動かしてくださる。そして、帰り際には、「オヤジ、また来るから頑張ってな!」と言って、グーを握って手を挙げると、その方もグーを握って上に挙げてくれるようなことがあった。震災以降は年賀状のやり取りもしており、今年も送ったが返信がなかったので、気になっていたのだが、今回訪ねると、娘さんが出てこられ、「父が亡くなりました。年賀状をいただいておりましたのに、喪中で失礼しました。ちょうど今日、喪中で失礼しましたという手紙を投函するところでした」と言っては、私あてのものを見せてくださいました。それから奥様が、どうしても竹内さんに線香をあげてもらいたいとおっしゃり、私も「もちろんです」と線香をあげさせていただいたが、そのときに、奥様が、そのオヤジさんの遺骨に向かってずっと語りかけられる。「ほら、お父さん、竹内さんが来てくれたよ。ずっと来てくれたもんね。4年もずっと通ってきてくれたもんね。本当にありがたかったよね。お父さんに、何度も元気をくれたもんね」と言っては涙を流されるのを、ただただ、目をつぶって、手を合わせることしかできなかったが、そんな辛いお別れも今回はあった。これも関連死であると思う。
 本当に、このようなことが、同じこの日本の一部でおこっていることを切なく、残念に思う。小渕浜がある牡鹿半島の復興商店街(プレハブの仮設店舗「おしかのれん街」)で昼食をとっているとき、たまたま隣に座り合わせた方と話していると、その方は、石巻でも2番目に偉いという、石巻市牡鹿総合支所の支所長であった。さすがに、石巻市で2番目に偉い人ということで、話し方も態度も非常に大きな感じの方であったが、その店の大将が「ほら、この方たちは、金光教のボランティアさんですよ。あの、夏祭りを2回もやってくださった・・・」と言うと、その支所長さんも、私たちのことを分かってくださっており、「ああ、あの方たちでしたか。本当にその節はお世話になりました」と頭を下げられる場面があった。その支所長は、「復興住宅が建つときに、もしよろしければ、植樹なんかもなさるなら、私が一肌脱いで、話を通しますよ。植樹をすれば、一年一年、木が大きくなりますから、また来ていただいたときの楽しみにもなるでしょう。それを楽しみにまた来てくださってもありがたい」と言って<ださり、「帰ってから相談します!」と返事をしたのだが、非常に良い話であったし、良い出会いであった。少しのタイミングで出会えなかった方だけに、やはり「ご神縁」ということを思った。  福島県でも色々と伺ったが、もうこれ以上長くなるので、5年祭が福島県で行われることが決まったことだけお伝えする。復興5年祭の日程は平成28年3月7日、場所は「福島テルサ」。最後に、今回は大阪センター職員でもある寒川雅裕隊員が全行程にて参加してくれた。今年の1月に車の免許を取得したばかりの初心者マークであり、途中、何度も運転をしてもらった。運転の技術自体は未熟であるが、運転のこと一つにしても、被災者の方々との係わり方ひとつとっても一生懸命で、目を見張るものがあった。こういう活動のなかで、若い教師が育つということも本当に嬉しく思い、これも、中近畿教区の先生方をはじめ、信奉者の皆さまに支えられてこそのことであると、再確認することができた。  以上、第27次災害派遣の報告とさせていただきます。教区の先生方はじめ、信奉者の皆様には、ご祈念、お祈り添え、あたたかいご支援の数々や、励ましのお言葉を頂戴し、いつも本当にありがとうございます。おかげをいただき、事故や怪我もなく支援を続けさせていただいております。今後とも、被災された方々への継続的な支援を行いたいと思っておりますので、お力添えを賜りますよう、どうぞよろしくお願い申し上げます。