第二十二次災害派遣活動
2012年8月22日(水)~8月30日(木)
6月の会議で組織による決定がなされ、今回で最後の災害救援活動となる。
自分なりに、大切なものをかけ、休みなんかいらない。この災害に関わるならば、これくらいのストイックさは必要と、たくさんの隊員とともに突っ走ってきたつもりであった。
しかし、今回は、第○次災害派遣、第○○次災害派遣という活動を行っている段階では想像も出来なかった、被災者との別れがおとずれる。
そして今回は、金光教大阪災害救援隊が、最後に「夏祭りin小渕浜Ⅱ」を開催する。
これは、被災者からも非常に願われていたことの一つであった。
前日には、小渕浜の隣村である小網倉浜(小網倉浜地区清水田浜仮設団地)において、『玉水教会OTO倶楽部による演奏会と炊き出し』を行った。
実はこの演奏会、正午の開始であったが、開始3分前になっても誰一人として聴きに来なかったのであった。私たちスタッフは非常に焦ったのであるが、正午を告げるサイレンとともに、仮設の住民は集いだし、50名ほどの方が集まった。この50名という人数は、この浜にお住まいの人口の約8割であり、寝たきりで動くことが出来ない方などのことを考えると、仮設のほとんどの住民が集まってくださったことになる。これは、非常に異例なことであった。(※この類のボランティアは、被災者からすると、お付き合いの部分が多く、ほとんど人が集まらないのである)
打合せの段階で、「演奏は本当に下手くそなんです」と、玉水教会長夫人は何度もおっしゃられており、私としては、一生懸命やってくださるのだから、下手くそでも何でも良いと思っていた。しかし、その演奏を聴いた瞬間に、親奥様は、謙遜されておっしゃられたんだとわかり、下手くそでも何でも良いなどと思った自分が恥ずかしかった。
演奏は非常に迫力があり、鳥肌が立つほどのもので、津波で何もなくなった小網倉浜に響き渡った。涙を流しながら聞いている住民も多く見受けられ、また、スタッフのほうにも涙が止まらない者があった。
そして次の日、8月26日には、小渕浜での夏祭りが行なわれたのであるが、詳細については、昨年に準じた報告のパンフレットを秋の本部大祭にて全教配布の予定となっているので、ここでは簡単に触れておくが、スタッフ109名、飲食屋台17店舗、ゲームコーナー5店舗、美容室、無料バザーコーナーと、あわせて24店舗も出店することが出来、さらには、特設の舞台を設けて玉水教会「OTO倶楽部」の演奏会や、さまざまな出し物が催された。
開催は正午からであったが、午前10時過ぎより猛暑のなか、約2時間にわたって、ブラスバンド隊が、小渕浜の孤立した集落に演奏を奏でながら練り歩いた。
孤立した家の方々は、ブラスバンド隊が通ると、非常に喜ばれ、多くの方が涙を流された。実際、村の中でも多くの確執が生まれており、会場となる民宿「めぐろ」にて行う夏祭りにも参加が出来ない方もある。
今回は、孤立集落をブラスバンド隊が練り歩くことによって、そんな方々にも非常に喜んでいただくことができた。
詳細については、先ほども申し上げたとおり、後に発刊されるパンフレットをご覧いただきたいと思うのであるが、夏祭りは大盛況で、地域の住民は皆、大喜びであった。
そしてこの夏祭り開催にあたり、被災地・被災者に対して非常に大きな真心を傾けてくださった、大阪教会長はじめスタッフの皆様、玉水教会長ご夫妻はじめスタッフの皆様、玉水教会「OTO倶楽部」の皆様、西近畿教務センターの皆様、東中国教区青年教師の皆様、名古屋地方連合会の皆様、みちのくボランティア隊の皆様、東京より駆けつけてくださった有志の皆様、被災者でありながら「あなた方の行き方に共感する」と言い出店してくださった美容師の皆様に敬意を払い、感謝申し上げます。
さて、「夏祭り」が終わり、撤収作業が完了して、スタッフの閉会式も終わりの頃、民宿「めぐろ」の大将が「俺にも一言しゃべらせろ!」と言って、閉会式の輪の中に入ってきたのであるが、「じゃ、一言だけどうぞ」とマイクを渡すと、大将は「みなさん・・・、ありがとう・・・」と言ったきり、涙がこぼれて何も言えず、マイクを返された。
とっさに、私は「オヤジ、『一言しゃべらせろ!』って言うからマイクを渡したのに、何も言えないじゃないか」と言うと、大将は「だから、一言って言ったじゃないか」と言ってスタッフを笑わせる一面もあった。
その後、閉会式も済み、民宿「めぐろ」にてスタッフを見送ったあと、「めぐろ」の女将さんに呼ばれた。
精算のことかと思ったが、全く違った。
内容はこうであった。
女将「竹内さん、実は、ハモ(現地では穴子のこと)を預かっているのよ。それで、調理してあげるから、どんな食べ方がいい?蒲焼がいい?丼にしようか?」
私 「えっ?誰からですか?」
女将「実はね、内緒なのよ。絶対に言わないでくれって言われているから」
私 「えっ?どうして?」
女将「あなたたちが、ずっと、名前も名乗らずにボランティアをやってくれて、人が行かないところまで物資やお弁当を持っていってくれたでしょ。だから、このハモをあなたたちに食べさせてやってほしいと持ってきた漁師は『俺の名前は絶対に言わないでくれ。あの人たちもいつもそうしてくれたから』って言ったのよ。だから名前は教えられない」
というやり取りがあり、そこに居た隊員一同は、感激して言葉に表すことができなかった。
思い返せば、私たちはこの活動を通したなかでは、感動して言葉に表すことができないことばかりであった。
そして、帰ってからも色んなことが思い出される。
「初めて被災地を訪問した際、海老名サービスエリアで給油の列に並んでいたら先頭まで導いていただき『あなた方は遊んでいるのではないのですから並ばないでください』と言って満タン給油してもらえたこと」、「最初、なまりがきつくて、被災者が何を言っているのか全くわからなかったが、今は聞き取れて、わかるようになったこと」、「活動に参加の先生がタクシーに乗ったとき『荷物が大きいけどどこかいくのか』と聞かれ、被災地にボランティアに行くと言ったら、センターまでのタクシー代を無料にしてもらったこと」、「津波でご主人を亡くされた方が『こんな誰も来ないところにまで入ってきてくださって、嬉しかった』と言ったこと」、「仮設の集会所で炊き出しの際、津波で母親と兄を亡くした少女が、私の袖を引っ張って『ねえ、今日は泊まってってよ』と言ってくれたこと」、「お別れの握手をしたときに『俺たちの関係が終わるわけじゃない』と言って泣いた屈強な漁師のこと」、「グッと私の腕を掴んで『何か形に表したかったから』とブレスレットをつけられたときのこと」、「お別れを言いに行ったとき、お互いに涙を堪えるのが必死であまり話せなかったこと」、「『オヤジ、すぐ泣くからな』と言ったときに、めぐろの大将に『今回ばかりはあんたも人のこと言えないよ』と言われたこと」、「村に2軒しか残らなかった家を訪問し続けたら『あなたたちは、私にとって、一筋の光でした』と言って涙をながされたこと」
もっともっとたくさんのことがあったが、書ききれない。
すべては、おかげのなかにあったこと、神様がなされたこと、中近畿教区の皆様のご信心に支えられて行った活動の中でのことであったかと思う。
しかし、非常に主観的になって申し訳ないのですが、自身が、もっと勇気を持てたら、強い男であったら、もっと被災者に何かしてあげられたかもしれないし、状況も違っていたかもしれない。もっともっと勇気を持てたら・・・と思い、悔しくも思う。
これまで、一年半にわたり、様々な活動を展開してきたが、被災者とお別れをし、拠点の撤退の準備も整い、仙台から大阪に引き上げる日の朝、大きな地震があった。
昨年の3月、4月の余震を彷彿させるほどの大きな地震で、仙台のアパートでも震度4強、被災地では震度5強、震度6弱というものであった。
地震があって、みんなが飛び起きたのであるが、「本当に撤退して帰っていいのだろうか、これは、神様からのお諌めではないだろうか」と思うようなこともあった。
また、ずっと雨が降らなくて日照りが続いていたが、帰りの車中では、豪雨に見舞われ、そのときも、ただならぬものを感じたということもあった。
教区の皆様には、昨年の3月、臨時の教区委員会を召集してくださり、行って来いと大きく背中を押してくださり、また、あるときは、資金や物資を集めに奔走してくださいましたこと、本当にありがとうございました。
被災者の方々は、行く度に涙を流され、最後の最後まで喜んでくださいました。
しかし、定期的な災害派遣活動は8月で終わりましても、被災地の現状は何ら変わりません。一旦、目に見えるガレキが集積所に集まっただけで、仮設住宅にお住まいの方が、新しく家を建てて仮設住宅から出て行ったという話は聞いたことがありません。
今後行うべきこと、課題は山積しておりますので、今後も東日本大震災で被災された方々、今までに関係を築き上げてきた方々への何らかの支援活動は行ってまいりたく存じます。
また、昨今、話題となっております、南海トラフ巨大地震の死者予想は、32万人とも言われております。せっかく出来たこの組織を、眠らせることなく、今後、どのような激甚災害にも対応し得る組織にしてまいりたいとの願いもございます。
今後とも、中近畿教区の先生方をはじめ、信奉者の皆様にはご協力、ご祈念、お力添えをお願い申し上げる次第でございます。
まずは、第22次災害派遣の報告と、これまでの御礼を申し上げます。
長きにわたり、いつもいつもお祈り添えを賜わり、暖かい励ましのお言葉や、数多のご支援をいただき、一度の事故や怪我もなく、無事に活動を終えさせていただくことができました。
ありがとうございました。